日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【日米開戦前夜5】なぜ東条英機は対米開戦に踏み切ったのか【東条英機】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
お待たせしました。

 今回のテーマは「【日米開戦前夜5】なぜ東条英機は対米開戦に踏み切ったのか【東条英機】」というお話です。

 

 1941(昭和16)年8月1日、アメリカは日本に対する石油の全面輸出禁止を決定し、イギリスもオランダも続きました。

 日本国内の新聞では、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)の日本に対する経済制裁を中国(China)と連携した「日本いじめ」という構図でわかりやすく「ABCD包囲網」として国民に被害者意識を煽りました。

 日本国内では「即、対米開戦!」が声高に叫ばれるようになり、陸海軍の中でも、「石油の供給を絶ったのであれば、軍としては開戦以外に道はない」として開戦強硬論が強くなってきました。

 当時の国際ルールにおいては、「宣戦布告」が政治面での国交断絶ならば、「経済制裁」は経済面での国交断絶を意味します。
 つまり、大日本帝国が滅び去った悪名高き‘大東亜戦争‘は、アメリカが仕掛けてきた戦争なのです。

 そこで、海軍は以下のような内容をまとめた「帝国国策遂行方針」なる文書を作成しました。

「放置すれば、物資不足のために陸海軍の戦力は立ち行かなくなる。それくらいならば、対米開戦を覚悟してでも、資源獲得のために南方進出を断行するべきだ。10月下旬を目標に戦争準備と対米外交を並進させ、10月上旬になっても、対米交渉が成立しそうもないと判断した場合には、対米開戦は発動する。」

 しかし、対米(英蘭)開戦に慎重であった及川古志郎(おいかわこしろう)海相は、この文書に「目途なき場合」という字句を加え、当初よりも幾分弱めた内容にしたうえで、9月6日の御前会議に備えました。
 遂に御前会議で日米開戦についてはじめて取り上げられたのでした。

 9月6日の御前会議では、昭和天皇杉山元参謀総長に対して質問しました。

「杉山よ。もし、対米開戦となった場合、どのくらいで決着がつく?」

 杉山は答えました。

「だいたい3か月くらいかと思われます。」

 昭和天皇は大激怒し、問いただしました。

「杉山よ。お前は北支事変(日中戦争)のときも、1カ月で終えられると言ったな。しかし、4年経った今でもまだ収拾がついていないではないか。支那は広いというが、太平洋はもっと広いぞ。一体何を根拠に3か月としているのだ。」

 昭和天皇は、和平実現を心から願っておられました。
「よもの海 みなはらからと思う世に など波風たちさわぐらん」
 これは明治天皇の御製の和歌ですが、「世界の平和を願ってやまないときに、なぜこうも波風が立つのだろうか」という意味で、昭和天皇は席上で朗読し、列席の人々の心を動かしました。
 しかし、海軍としてはその立場上、開戦反対へと進めるわけにはいきませんでした。石油が断たれているゆえに、海軍は2年以内にその機能を完全に喪失してしまいます。

 結局、9月6日の御前会議では対米(英蘭)戦が決定されましたが、その戦争はひょっとすると、いやかなりの確率で負けるかもしれないという不安を覚えつつも下された重要な国策決定となってしまいました。

 

 一方、日米交渉においては、近衛文麿首相が和平交渉のために自ら親書を送り、ルーズベルト大統領と日米首脳会談を行いたいとアメリカ側に伝えました。

「近衛殿、対米開戦の気運が高まる中で、和平を実現するのは危険すぎます。」

「バカもん。そのくらいの覚悟は出来ている。対米和平は私の命をかけてでも絶対に達成してみせる。」

 近衛は、帰国後に自身が暗殺される危険を冒してでも対米和平を実現させようとしていました。これまで何事も優柔不断で投げやりに政治運営をやってきた近衛ですが、日米開戦を目の前にしてようやく真面目に仕事をする気になったようです。

 しかし、時すでに遅し。ルーズベルトはそんな近衛を全く信用しておらず、「原則的諸問題の了解が必要だ」として交渉には応じませんでした。
 結局、日本郵船の新造船「新田丸」が近衛の乗船として準備され、随員の人選も進められていましたが、首脳会談は実現しませんでした。
 近衛内閣における日米関係はもはや「末期症状」だったのです。

 こうして、日米交渉が進展しない中、ついに10月上旬を迎えました。
 東条陸相は先の御前会議に基づき、対米開戦を強く主張しました。

「交渉妥結の目途がないのなら、予定通り、対米開戦はやむを得ない。しかし、対米戦となると海軍が主力となる。むろん海軍さんの方に自信がないのならそれまでだが。」

 これに対し、及川海相としては、正直アメリカとは戦争したくないけど、明治よりアメリカを仮想敵として巨額の予算を取り、軍備を拡張してきたてまえ、自信がないとは言えない。巨大戦艦「大和」と「武蔵」の竣工も間近に迫っています。

 及川海相は東条陸相にゲタを預けました。

「どうぞ、陸軍さんの方からご決断を。」

 東条陸相はすかさず答えました。

「何を言うか。これは海軍の問題だろう。」

「では、総理に一任してみてはどうでしょう。」

 こうして最終的に決断を迫られた近衛首相ですが、なおも開戦に踏み切ることが出来ず、交渉継続を主張。しかし、アメリカは交渉に応じてくれそうもない。そこで近衛は回答しました。
「陸海軍の意見が不一致で、そんな重大な決断をすることは出来ない。」

 もはやダチョウ倶楽部を連想させるような責任のなすりつけ合いですが、その後も東条と近衛は何度か懇談を重ねたものの、結局、話はまとまらず、最後には東条が会見を拒否するカタチで、第三次近衛内閣は総辞職しました。

 翌日、東条は木戸幸一内大臣に呼び出された。
 木戸幸一とは、明治維新木戸孝允の孫ですが、東条に組閣の命を下しました。御前会議での決定を盾に近衛内閣を総辞職に追いやった東条は怒られると思っていたので、意外でした。

「東条殿、陛下はなおも対米和平を望んでおられる。9月6日の御前会議での取り決めは全て白紙に戻し、内情の情勢を深く検討のうえ、和平実現に注力してほしい。」

 対米強硬派の東条に首相を任せるのは大きなリスクでした。
 しかし、木戸としては「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の心境で、これまでのいきさつを熟知している者でなければいけないことに加え、東条ならば陸軍を抑える立場にもあるので、方針の変更も可能であると判断したため、組閣を命じたのでした。

「全力を尽くします。」

 東条自身も、対米強硬を煽ったのは、陸軍大臣という立場上やむを得ないことで、本音のところはアメリカと戦争などしたくありませんでした。

 組閣の命を受けた東条は、そのまま現役にとどまり、中将から大将に昇進し、陸相と内務大臣を兼任するカタチで組閣に着手しました。

 こうして同1941(昭和16)年10月18日、東条英機内閣が成立しました。
 新たに外務大臣に就任した東郷茂徳は、東条に言いました。

「日本が中国より撤退しなければ、日米交渉は無意味だと思われますが。」

東条は答えました。

「それも含めて再検討しよう。」

 東条内閣は組閣後の10月24日~30日までの連日、政府統帥部連絡会議を開き、総理、陸、海、外、蔵、商の各大臣の他、企画院総裁、陸軍参謀本部総長、海軍軍令部総長らが出席のうえ、対米開戦の再検討がされた。

 そして、11月1日以降の連絡会議では以下の三案が議題とされました。

第一案.戦争を極力避け、臥薪嘗胆する

第二案.ただちに開戦を決意し、諸政策をこれに集中する

第三案.戦争決意のもとに作戦準備を決意し、外交施策を続行して、これが妥結に努める。

 第一案は、陸海軍ともに検討に値するものではありませんでした。特に海軍からの反発は強く、アメリカ、イギリス、オランダによる経済封鎖のもとにあっては、物資の欠乏は激しさを増すことは明確で、特に石油に関しては、先述通り、海軍は2年以内にその機能を完全に喪失してしまいます。

新たに海軍大臣に就任した嶋田海相は言いました。

「我が国の石油貯蔵量は約840万キロリットルであり、ただちに対米開戦した場合、早くて1年半、持って2年余りの間には完全に使い切ってしまうでしょう。」

 一部からは「人造油田プラントを開発できないか」という意見が出ましたが、そんな時間はありません。

 こうして第一案は放棄されました。

 この時の海軍兵力は対米7割に達しており、短期決戦であれば、勝算は十分あるとのことでした。
 しかし、十中八九、アメリカは戦争を3年目以後に引き延ばしてくることが予想される。長期戦となれば、日本に勝ち目はない。

 東条首相は軍部としての総括を「2年目までなら勝算はある。3年目以降は不明である」としました。

 残ったのは第二案と第三案ですが、誰も対米戦に踏み切る決心がつかず、結局、第三案が採用されることになりました。

 東郷外相は第三案にのっとり、日米妥結案を作成しました。
「日本は仏印(フランス領インドシナ)以上に武力進出を行わないことを条件に、アメリカは石油をはじめとした物資の輸出を再開すること。」

 これは駐米野村大使を通じてからアメリカのハル国務長官に提出されました。

 ハルは当初、この案に興味を示しました。ルーズベルトも興味を示し、アメリカ側は、「日本は南進も北進もせず、アメリカは民需用の石油、綿花、食糧、薬品などを毎月一定量供給する」という代替案を作成し、イギリス、オランダ、中国、オーストラリアなど各国代表に提示しました。

 しかし、この暫定案に対しては、イギリスと中国の強い反発がありました。

「日本は甚だしい勘違いをしている。インドシナなど問題ではない。我々が一番に望むのは、中国大陸からの日本軍の即時撤退なのだ。」

 イギリスは幕末のアヘン戦争以来、中国に莫大な投資をしており、それらの工業基盤が戦争に破壊しつくされることに強い不満を持って庵、アメリカ以上に日本を敵視していました。

 その頃、アメリカ側ではモーゲンソー財務長官やスティムソン陸軍長官らによって極めて強硬な内容が含まれた以下の項目を含む10項目が作成されていました。

1. 日本は、米、英、ソ、中、オランダとの多辺的不可侵条約を締結すること。

2. 中国大陸(満州を含む)からの一切の軍隊の撤退させること。

3. 仏印(フランス領インドシナ)からの一切の軍隊の撤退させること。

4. 重慶政府を正式な中国政府として認めること。

5. 日独伊三国同盟を直ちに解散すること。

 これはいわゆるハル・ノートとよばれるもので、翌11月26日、ハルから野村、来栖(くるす)に渡された。

 この内容を知った東郷外相は大激怒しました。
 東郷が特に激怒したのは、満州からの撤退であり、満州国はもともと中国の領土なのだから、中国に返せということを要求してきたのです。アメリカは無関係であるにも関わらず。
 つまり、このハル・ノートの趣旨は、日本は1931(昭和6)年以前の状態に戻れという要求でした。
 東郷外相が怒こるのも無理はありません。
 現代なら、日本とアメリカがTPPや普天間基地についての交渉をしている時に、日本側がいきなり、「アメリカはテキサス州カリフォルニア州をメキシコに返せ!ここはもともとメキシコ領なのだから。」と言ってきたらアメリカはどう思うでしょうか。

 それまで最も対米和平派であった東郷外相が一番の開戦論派になってしまいました。そして東条に進言しました。

アメリカはまともに交渉する気がないようだ。東条殿、もはや対米開戦はやむをえないのでは。」

「人間、ときには清水の舞台から飛び降りる決心が必要なのかも知れない。」

 そう言って、東条首相も対米開戦に踏み切りました。

 こうして12月1日。御前会議にて正式に対米開戦が決まりました。

 東条は個人的に昭和天皇に面会し、号泣したそうです。

「陛下、申し訳ございません。対米和平に全力を尽くしましたが、このたび、対米開戦を決断するに至りました。」

 翌2日、大本営は陸海軍の両司令官に電報を発しました。
ニイタカヤマノボレ一二〇八」
 これは12月8日を日米開戦の日とするという意味ですが、これを受けた連合艦隊司令長官山本五十六は、すでに太平洋上に布陣していた南雲忠一(なぐもちゅういち)中将率いる機動部隊にハワイへの奇襲攻撃を正式に命じたのでした・・・・。

 以上、日米開戦前夜について解説してきましたが、現代ではハル・ノートは戦争を前提とした最後通牒ではなかったという主張が散見されます。書類の冒頭には「一時的かつ拘束力なし」との文言が記されていたからだそうで、例えば「中国からの全面撤退」も必ずしも強制的なものではなかったという解釈もされています。

 しかし、日本としては石油の輸入を絶たれている以上、一刻の猶予も許されていません。そんな切羽詰まった状況の中、あのような挑発行為をされては誰でも対米開戦もやむを得むなしとするのが当然でしょう。当時は、国際的な紛争を戦争で解決させるのが当たり前の時代です。
中国大陸からおとなしく撤退していれば、対米開戦は免れたという人もいます。

 そんなの簡単に出来るはずがありません。
 日本はすでに支那事変(日中戦争)で20万人の兵を失っており、国民は緒戦の勝利で大熱狂しています。ここで政府や軍部が撤退を命じたら、彼らの権威は最低ランクにまで失墜していまいます。

「国の滅亡と自身の名誉を天秤にかけたとき、彼らは名誉の方を取ったのだ。」

 それは歴史的な結果論に過ぎません。この当時の日本人で国が亡ぼされると予見していた人は少数派で、ましてや原爆なんていう非人道的な爆弾までおとされるなんて誰一人として予見していません。
 日本は支那(中国)での戦線を拡大した時点で、対米開戦は避けることのできないものだったのでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献

太平洋戦争「必敗」の法則 太平洋研究会=編著 世界文化社
手に取るようにわかる 太平洋戦争 瀧澤中=著  日本文芸社
昭和史 上 1926ー1945  中村隆英=著   東洋経済新報社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

【日米開戦前夜4】ABCD包囲網はこうして形成された

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜4】ABCD包囲網はこうして形成された」というお話です。

 

 なぜ日本とアメリカは戦争をしてしまったのでしょうか。
 それを一言で説明すると、「アメリカが対日石油全面禁輸をしたから。」に尽きます。
 当時、日本は石油の輸入のおよそ8割をアメリカに頼っていました。それを全面禁止したというのですから、日本の軍事も産業もストップしてしまうのは当たり前です。
アメリカはそれを知っていて断行した確信犯なのです。イギリスもオランダもそうです。
 国際紛争を戦争によって解決するのが当たり前だった当時、「経済制裁」とは「宣戦布告」と同様の意味を持ちます。
 つまり、太平洋(大東亜)戦争とは、アメリカが最初に仕掛けてきたのです。

パールハーバー」というアメリカ映画がありましたが、その劇中でも山本五十六が「敵は我々の生命線である石油の供給を絶った。」としっかり発言しています。つまり、現在のアメリカ人だって本当のことは知っているのです。

 ではなぜ、アメリカは対日石油全面禁輸に踏み切ったのでしょうか。日本にも原因があったのではないでしょうか。今回をそれについてのストーリーを解説いたします。

 

 1940年9月、日本軍が北部仏印進駐(南部ではないですよ。注意してください。)したことで、アメリカは1940年10月、くず鉄及び鉄鋼の対日輸出を許可制とすることを決めました。

 そして翌1941(昭和16)年1月16日、ルーズベルトは政治顧問や陸海軍両軍事長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長をホワイト・ハウスに招き、今後の国策についての話し合いが行われ、アメリカ政府は以下の方針を打ち出しました。

「我が国が日本・ドイツの両国と戦争になった場合、同盟を結ぶイギリスと共に対ドイツ戦を優先的に戦う。」

 前1940(昭和15)年9月、日本はドイツ・イタリアのファシズム勢力と手を組みました。それによってアジアとヨーロッパの戦争が一体化してしまったわけですが、当初、アメリカは対日戦よりも、対ドイツ戦を優先的に考えていました。
 つまり、1941年初頭の時点までは、アメリカ政府の国家戦略において、対日開戦を行う予定はなく、主に外交によって対処する、若しくは軍の戦時態勢が万全に整うまで、対日戦は先延ばしにすることが決められていました。

 一方、日本国内では民間人が積極的に対米和平のために米民間人と交渉を行っていました。

経済制裁の見直しをお願い申し上げます。」

「石油の輸入禁止だけはご容赦を。」

「一人の日本人としてアメリカと戦争はしたくありません。」

 少数ながら民間人の中にも対米和平を何としても成功させたいと願う人達がいました。
 民間人が積極的に対米交渉をやっているのに、政府がやらないわけにいきません。これは本来、政府の仕事です。

 そこで、第二次近衛内閣はようやく、中国やインドシナにおける政治と軍事の問題解決に向けて対米交渉をはじめることにしました。それはアメリカ政府が、日本軍の北部仏印進駐に対して、くず鉄・鉄鋼の経済制裁をしてから半年後の1941年3月8日、あの優柔不断だった近衛文麿首相が、真面目に仕事をやるようになったのです。

 こうして駐日大使の野村吉三郎は、アメリカの国務長官コーデル・ハルと日米交渉を始めました。
 アメリカとしてもドイツとの戦いを控えている以上、出来ることなら日本とは外交によって和平を実現させたいと思っていました。
 交渉を始める前、ハルはルーズベルトに以下のように進言しました。

「いたずらに日本を政治的・経済的な圧力をかけてはいけません。日本側にも対米穏健派はたくさんいます。彼らの立場を弱めてしまってはアメリカにとっても大きな不利益が生じます。ここは理性的に対応し、日中間の戦争を収拾させ、ドイツとの同盟関係も死文化にする必要があります。」

 アメリカとしても日中和平は最重要課題であり、特に厄介な日独伊三国同盟の解散を交渉によって達成出来るならと交渉に応じたのでした。

 

 日本国内では一方で、「北進論」と「南進論」が争われていました。
「北進論」を唱える陸軍はソ連を仮想敵国として満州国日中戦争などを根拠に予算を貰っていました。一方、「南進論」を唱える海軍はアメリカを仮想敵国とすることで予算を貰っていました。したがって、海軍としては南方に兵を進めなければ、その立場が危うくなります。
 当時、大日本帝国の陸軍と海軍は犬猿の仲です。これは明治時代の健軍以来から続くもので、陸軍と海軍は国家予算という限られたパイを互いに奪い合ってきたのです。

 日米交渉では、野村は民間人が作成した「日米諒解案」として知られる草案を持って交渉に向かいました。

その主な内容は、以下の通りです。

1.日本が中国から撤退し、満州国を承認することを条件に、アメリカは日中和平に乗り出すこと。

2.日本が武力南進政策をとらないことを条件に、アメリカは日本の南方資源獲得への支持と協力をすること。

これらの条件が全て成立したうえで、日独伊三国同盟の持つアメリカへの敵対心は弱めるとしました。

一方、ハルが突きつけてきた条件は以下の通りです。

1.あらゆる国家の領土保全と主権尊重

2.他国に対して内政干渉を行わぬこと

3.通商を求めた機会均等を認めること(特に中国に対して)

4.平和的手段によらぬ限り太平洋事情は現状を維持する

ハルはまず、日本政府がこれらの原則を守ることが先決だとしました。「とにかく日本は征服と侵略を放棄して平和的な原則に立ち返りなさい」というアメリカなりの正義を振りかざした条件でした。

 早速、交渉は難航しました。

 

 そんな中、同1941年4月22日に日ソ中立条約を結んだ松岡洋右(まつおかようすけ)外務大臣が帰国してきました。
 松岡は自分が留守のあいだ、政府が勝手に対米交渉を行っていることを知って大激怒しました。

「勝手に対米交渉を進められては困る。外務大臣はこの私だぞ。それに三国同盟を解散するだと?ふざけるな。私は何のためにソ連と中立条約を結んだと思っているのだ。日独伊にソ連を加えたユーラシア同盟で英米に圧力をかけるためだぞ。」

 ソ連と手を組むことが出来たことで、すっかり強気になった松岡は、南進については、武力に訴えることなくという字句を削り、三国同盟に関しては日本は確固たる参戦義務を持っているとして大幅に修正した日米諒解案を5月11日に野村大使を通じてハルに提出しました。

 日独伊三国同盟の解消を最大の目的としていたアメリカにとって、この修正案は交渉に値するものではありませんでした。
 これを受けたハルも「これでは対日開戦はやむを得ないか」と感じるようになります。しかし、日本がソ連と手を組んでいる以上、直接的な戦争は避けたい。ハルは交渉の引き延ばしをすることにしました。

 

 そんなとき、予想外の出来事が起こりました。
 1941年6月、ドイツがソ連に侵攻したのです。

勝利の女神は我々に微笑んだ。」

 これでソ連が枢軸国陣営につく可能性がなくなったことで、今度はアメリカ政府が強気になり、今後の日米交渉継続の条件として「松岡外相を罷免すること」を要求しました。

 ドイツのソ連侵攻の知らせを聞いた日本政府は驚愕し、松岡を罷免するために第二次近衛内閣は1941年7月18日に、いったん総辞職し、松岡を除いた第三次近衛内閣が誕生しました。またしてもドイツに裏切られた日本は、アメリカとの戦争を避けるために、アメリカの容赦なき「内政干渉」を聞き入れたのです。

 それでも、親独派の東条ら陸軍は「三国同盟は日ソ中立条約に優先する」としてあくまでドイツ側に立ってソ連と対立する姿勢を示しました。
 東条は、北の守りを確固たるものとするために満州に駐在する関東軍に動員をかけ、総勢70万人の大兵力を関特演(関東軍特種演習)と称して満ソ国境に集結させました。

 ドイツのソ連侵攻は、スターリンも予測しておらず、彼は別荘に2週間、身を隠していました。そこに東側から日本軍が大兵力で構えているわけですからシベリア(東側)からモスクワ(西側)に兵を送ることが出来ません。兵力が分散されている分、ドイツはソ連侵攻を有利に進めることが出来ます。同盟を結んでいる日本からのドイツに対する軍事的支援でした。
 陸軍としても、関特演は予算をしっかり獲得するためには非常に重要で、政府としても、「北は守られた」状態になったので、好都合でした。そこで、海軍としは「では、南に兵を進めましょうよ。」となるわけですが、政府内での「北守南進」の意見が強くなってきました。

 同1940(昭和16)年7月2日に御前会議で開かれた大本営連絡会議では北守南進論こそが「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」として決まり、フランス政府には南部仏印進駐を強要し、日本軍は同年7月23日以降、南部仏印への進駐を始めました。

 こうした日本軍の動きに対し、アメリカ政府の日本に対する警戒心は一気に高まりました。
 1940(昭和15)年に実行された北部仏印進駐の場合、日中戦争に関する「蒋援ルートの遮断」という大義名分があったことは明白でした。しかし、今回の南部仏印進駐には明確は大義名分が見当たりませんでした。
 アメリカ政府は日本の南部仏印にはどのような意図があったのか考えました。

「日本はなぜ南部仏印にまで兵を進めたのだ?もしや、ここに前線基地として我が国領フィリピンや英領マラヤ及びシンガポール、蘭領東インドなどインドシナ全ての占領を企んでいるのでは?」

 こうしてアメリカにとって日本とはもはや見過ごすことのできない存在となってしまい。イギリスやオランダも同様に警戒心を持つようになりました。

 

 一方、日本側としては南部仏印進駐には、特に深い意味を持っていませんでした。

「北部を占領したんだし。ついでに南部も取っちゃおうよ。どうせフランス領なんだし。同じでしょう。」

 そんな軽い気持ちでした。
 よく南部仏印進駐は石油を確保するための前線基地の建設のためだったと述べる歴史学者がいますが、そもそもベトナムに石油はありません。石油が眠っているのは当時オランダ領インドネシアであり、前線基地なら北部仏印だけで十分です。

 日米対立がここまで悪化させる原因を作ったのは、主に陸軍です。しかし、海軍はそんな陸軍の失態を学ばずに、南方方面でいたずらに戦線を拡大してしまった。アメリカを仮想敵として予算を取るために。

 理性や論理などの合理的発想を重視する西洋人にとって、日本軍の明確な大義名分のない進駐は理解し難いものでした。
 一方、感情や精神などの非合理的発想をする傾向のある日本人にとって、大義名分なき進駐に対して、西洋人が警戒心を強めることを予測することが出来なかったのです。

 

 こうして1941(昭和16)年8月1日、アメリカは遂に対日石油全面禁止という最も強い切り札を出してきました。イギリスとオランダもその後を追った。

 この経済制裁によって日本はいよいよ国際経済から閉め出されることになってしまいました。
 日本国内の新聞では、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)の日本に対する経済制裁を中国(China)と連携した「日本いじめ」という構図でわかりやすく「ABCD包囲網」として国民に被害者意識を煽りました。

 これによって、日本国内は「即、対米開戦!」が声高に叫ばれるようになり、日本政府内でも、「対米開戦やむなし」という意見が強くなってきました。

 日米対立はどうなってしまうのでしょうか。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
教科書には載っていない 大日本帝国の真実 武田知弘=著  彩図社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
もういちど読む 山川日本史  鳴海靖=著  山川出版社

【日米開戦前夜3】アメリカを強硬にした日本の行動とは

 こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜3】アメリカを強硬にした日本の行動とは」というお話です。

 

 コンピエーニとは、フランス北部のパリから北北東に約80キロの地点に位置する都市です。
 ここには別名「休戦広場」と言われるコンピエーニの森があり、2度の世界大戦の休戦協定が結ばれています。
 1918(大正7)年11月11日、第一次世界大戦の休戦協定はこの広場で行われました。勝者であるフランスは敗者であるドイツに対し、屈辱的ともいえる休戦条約を調印させました。

 それから約22年後の1940(昭和15)年6月22日、第二次世界大戦が行われる中、今度は立場が逆転し、勝者であるドイツが敗者であるフランスに対し、報復的ともいえる休戦条約を調印させました。
 連合国陣営の大国であるフランスがドイツに降伏したのです。

 1939(昭和13)年8月に勃発した第二次世界大戦は翌1940(昭和14)年4月9日以降、ドイツ軍の西方攻勢が行われ、デンマークノルウェーを制圧同年5月にはオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、そしてフランスにも侵攻し、同年6月14日、遂にドイツ軍はパリを占領したのでした。強力な軍事力を持っていたフランスはわずか6週間で完全な敗北を喫してしまいました。

 これは、ヒトラーの大拡張政策によって生まれた最新鋭の戦車や戦闘機などのハードウェアと、それを巧みに組み合わせてスピーディに作戦を行うソフトウェアの両面で他国よりも2歩も3歩も先んじていたからです。これは「ドイツ軍の電撃戦」と呼ばれています。
 こうして、ヨーロッパ戦線で唯一ドイツに抵抗出来る国はイギリスのみとなってしまいました。

 こうしたドイツの電撃戦は、ヨーロッパから遠く離れた日本の政府と軍首脳部も驚き、やがて東南アジアへ進出する「南進論」が熱を帯びてきました。
 当時、東南アジアを植民地とする宗主国はイギリス、フランス、オランダ、アメリカでしたが、アメリカ以外は今回の大戦でドイツ軍に圧倒され、これらの植民地は一時的に「管理者が弱体化」した状態となり、少し圧力をかければ簡単に制圧することが出来ると思われたのです。アメリカから日米通商航海条約を破棄されたことで、輸入の大幅な制限を受けた日本としては石油が豊富に採れるであろう東南アジアの植民地化は早急な課題でした。石油がなければ、現在も交戦状態である日中戦争を継続できなくなってしまいます。

 そして、フランスの降伏から一か月後の1940(昭和15)年7月22日、近衛文麿が再び首相の座に就き、陸軍大臣には東条英機を、外務大臣には松岡洋右を据え、第二次近衛内閣が誕生しました。
 陸軍と海軍は、このヨーロッパの戦争は遠からずドイツの勝利で終わると予想を立て、ドイツの勝利に便乗することを前提として今後の国策が取り決められました。
すなわち、第二次近衛内閣の当面の政策は、「東南アジア方面への南進」と、「ドイツ・イタリアとの三国同盟の締結」の2つとなりました。

 こうした方針に基づき、まず日本が着手したのは、フランスの植民地である「仏領インドシナ仏印)」への軍事的進出でした。仏印とはフランスが20世紀初め頃までに植民地または保護国としていたベトナムラオスカンボジアのことで、仏印シンドシナ連邦を組織しており、戦前の日本では「仏印」と呼ばれていました。
 日本軍の仏印進出の目的は、日本軍の東南アジア進出のための前線基地を作ることでしたが、最大の目的は、「援蒋ルート」の遮断でした。
 日本側も日中戦争の長期化の原因は、このルートを通じた英米による国民政府(蒋介石政権)への軍事的・物資的な支援であると見抜いており、仏印を通るこのルートはその大動脈ともいえるほど大規模な援助がされていました。この酸素ポンプを断ち切る必要がありました。

 しかし、こうした日本の策略はフランス側にも見抜かれており、フランスがドイツに降伏した翌日の6月18日、アンリ駐日大使を通じてすでに外務省に「本日をもって仏印は自発的に仏印―中国国境の全面封鎖をした」と通告されていました。
 「援蒋ルート」遮断の絶好の機会であるとみていた日本は、先手を打たれたカタチとなりました。
 そこで陸軍参謀本部は、西原一策(にしはらいっさく)陸軍少将を団長とした組織を派遣し、仏印通過・航空基地の使用・軍事資材の貯蔵などの交渉にあたった。

「この仏印通過及び航空基地の使用は、重慶の国民政府に対する昆明作戦の準備と、広西省に展開している日本軍の撤退が目的であり、支那事変(日中戦争)の処理の一環であります。」

 しかし、本当の狙いは中国南部に展開している南支那方面軍と新たに編成する印度支那派遣軍を北部仏印に進駐させることでした。

 これを受けた仏印のドクー総督(フランス極東艦隊司令長官)は、こうした日本側の要求は、実質的な日本軍進駐を意味するものであることを見抜いていましたが、かと言って拒否できるほどの武力もないとのことで、その回答を先送りにしました。

 同じ頃、日本軍は蘭印(オランダ領インドシナ)に対しても、仏印同様に、オランダ本国のドイツ軍への敗北を見越して、石油・ゴムなどの13品目にわたる原料資源の買い付けを要求しました。

 こうした日本軍の南方進出の動きは、アメリカのホワイト・ハウスにも伝わりました。

「ただちに、日本に対する石油・くず鉄・鉄鋼の全面禁輸を断行するべきだ。」

 そう主張したのは、モーゲンソー財務長官やスティムソン陸軍長官ら「対日強硬派」でした。
 こうした彼らの進言に同調的な態度を見せたルーズベルト大統領でしたが、ハル国務長官は、またしても警告しました。

「待ってください。今すぐ石油やくず鉄を禁輸にすれば、いたずらに日本の対蘭印侵攻を駆り立てられかねません。ここは慎重にいきましょう。」

 ルーズベルトはこうしたハルの主張を受け入れ、モーゲンソーらの提言は一旦、却下しました。

 一方、仏印では、ドクー総監による回答の先送りに対し、業を煮やした参謀本部作戦部長の富永恭次(とみながきょうじ)らが、強硬姿勢をとるようになり、日本軍の仏印進駐承認の期限を同1940年9月22日と定め、それを破った場合、武力衝突も辞さないとする強談判に出ました。

 こうした圧力を受けて、同1940年8月29日、仏印当局は日本の要求を呑み、現地にて「松岡・アンリ協定」が調印されました。
そして、同年9月23日、日本軍は仏印軍との交戦の末、北部仏印進駐をスタートさせ、25日の夕方には仏印軍を降伏させ、戦闘を終了させました。

 こうした予想以上に早く仏印進駐を果たした日本軍に対し、アメリカ政府はいよいよ対日経済制裁を本格化させるべきだとし、それまで慎重な対応をしていたハルも、同調しました。
 そしてホワイト・ハウスは9月29日、「大統領は10月16日以降、全等級のくず鉄・鉄鋼の輸出を許可制とすることに同意した」と新聞で発表しました。
この翌日、日独伊三国同盟が結ばれました。

「ヨーロッパ戦線は遠からず、ドイツの勝利で終わる。今のうちにドイツと手を組んでおけば、その権益を多く享受できるだろう。バスに乗り遅れるな!」

 ヨーロッパにおける(一時的に)覇者となったドイツと手を組めば、アメリカも日本に対する対応を譲歩するだろうと考えていました。

「我が国は上手くバスに飛び乗った。」

 そう安心していた日本に対し、アメリカはこの三国同盟を、日本の自国に対する侮辱と挑戦であると取った。

「事実上の同盟関係にあるイギリスと敵対するドイツと手を組むなど、無礼極まりない。」

 こうしてアメリカの日本に対する敵視は取り返しのつかないところまで悪化したのでした。

つづく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。


参考文献
「昭和」を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

【日米開戦前夜2】なぜアメリカは日米通商航海条約を破棄したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜2】なぜアメリカは日米通商航海条約を破棄したのか」というお話です。

 1858年(幕末の頃)、日本はアメリカ合衆国日米修好通商条約を締結しました。しかし、これは「領事裁判権」と「関税自主権」などの面で大変不平等なものでした。
 そんな不平等条約は、明治政府の外交官たちの努力によって、1894(明治27)年に日米通商航海条約が締結されたことによって、日本は領事裁判権を撤廃させ、1911(明治43)年には日米通商航海条約の改定によって、関税自主権の回復に成功しました。

 つまり日本は、アメリカと対等な立場で、貿易を行うことが出来るようになったのです。

 その後、日本とアメリカは互いに重要な貿易相手国として依存し合う関係となっていきました。

 

 しかし、そんなアメリカが1939年(昭和14)年7月に突然、日米通商航海条約を破棄することを通告してきました。

 一体何があったのでしょうか。

 1937(昭和12)年7月、日本は中国大陸で国民政府と戦争を始めました(日中戦争)。
 しかし、イギリスやアメリカは、日本が中国大陸での戦線を拡大することに危機感を覚えてしました。
 イギリスは中国大陸の莫大な投資をしており、多くの権益を持っていました。それが戦争によって破壊しつくされてはたまったものではありません。
 また、中国進出に出遅れていたアメリカは日本が中国大陸で戦線を拡大することは日本の市場独占のように映っており、アメリカは日本を9ヵ国条約違反であるとして、非難するようになりました。

 そんな中、1938(昭和13)年11月、日本の近衛文麿首相による「東亜新秩序の建設」という声明が発表されました(第二次近衛声明)。

 これにイギリスとアメリカは強く反発し、両国は互いに日本という共通の敵を倒すべく手を組んで、中国(蒋介石政権)を支援するようになりました。

 そんな中、アメリカ政府内では、対日報復として対日経済制裁を科すべきではないかという意見が高まるようになりました。
 こうした「対日強硬意見」を主張したのは、モーゲンソー財務長官やスティムソン陸軍長官などでした。

 そんなモーゲンソーらの主張に対し、ハル国務長官は警告しました。

「現在、我が国の軍事力はその整備が遅れています。もし日本に経済制裁を加えて、日本が反撃してきた場合、対抗できるのでしょうか。なにしろ、相手は日清戦争日露戦争に勝利した世界最強の帝国陸海軍を擁する国です。」

 このハルの主張に強い説得力を感じたルーズベルト大統領は、モーゲンソーらの「対日強硬意見」を却下し、日本に対しては当面、非難と牽制にとどめることにしました。
以後、アメリカは軍備の充実を図る一方で、中国に対しては引き続き支援を続けることを決めました。

 そんな中、アメリカから遠く離れた中国の天津で事件が起こりました。
 1939(昭和14)年6月14日、天津の日本陸軍が天津英仏租界を封鎖したのです。事の発端は同年4月9日にイギリス租界内で、日本側に立って便宜をはかってくれていた関税委員が4人の中国人に殺されたことでした。
 日本陸軍は裁判にかけるため、イギリス側に容疑者の引き渡しを要求したものの、イギリス領事館はこれを拒否。これを受けた日本の現地軍は天津英仏租界を武力によって封鎖したのでした。
 それ以前に、天津の英仏租界内は反日勢力の隠れ家となっているなど、イギリスが影で中国を支援している様子も日本にとっては面白いものではありませんでした。

 租界を封鎖されたイギリスは、東京でグレーギー駐日大使は有田八郎外相 と会談を行い、今後の対応についての取り決めを行いました。

「イギリスは中国における現実の事態を確認する」

 グレーギーは日本軍に敵対する勢力は徹底的に排除するとしました。つまり、イギリスは日本の要求を受け入れ、譲歩したのです。

 この知らせはすぐにアメリカのホワイト・ハウスにも届きました。
 人種差別主義者のルーズベルトは大激怒しました。

「イギリスめ。おいしいチーズをかじるドブネズミにひれ伏したのか。情けない。」

 これによって日本がますます中国大陸での勢力拡大を加速させると見たアメリカ政府は遂に、対日経済制裁の時が来たと判断し、同1939(昭和14)年7月26日、アメリカは日本に対し、日米通商航海条約の破棄を通告しました(失効は6か月後の翌年1月)。

 これがアメリカの日本に対する最初の経済制裁でした。

 一方、日米通商航海条約の破棄を通告された日本は失効が6か月後であったことからあまり大きな騒ぎになりませんでした。

 しかし、日本のアメリカからの輸入額は1930年代を通して30%を超えており、国別では1位であり、綿花、鉄鋼、くず鉄、石油であり、こと石油に関しては大半をアメリカからの輸入に頼っていました。この輸入が途絶えてしまうのですから、日本の軍事や産業はたちまちストップしてしまいます。
 一方、アメリカの日本からの輸入品目は生糸、缶詰、絹織物、お茶などの日常生活用品であり、アメリカにとって軍事や産業に支障をきたすものではありませんでした。

 当時の日本政府はこの通告に対して、どう対応すればよいのかわかりませんでした。

 というより、日本政府はそれどころではなかった。
 この当時、日本は日中戦争に加え、ノモンハンではソ連軍と抗戦状態であり、同盟を結んでいたはずのナチスドイツがソ連と手を組んでしまうという裏切り行為も受けるなど国際社会から閉め出されるのではないかという不安と恐怖でいっぱいでした。

 そんな中でのアメリカの対日経済制裁です。
 日本としては「もう勘弁してくれ」という状態でした。

 結局、日本政府は何の対応も出来ずに1940年1月、その失効の時を迎えてしまったのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
「昭和」を変えた大事件          太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史   山崎雅弘=著      ダイヤモンド社

【日米開戦前夜1】なぜ日本とアメリカは対立するようになったのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日米開戦前夜1】なぜ日本とアメリカは対立するようになったのか」というお話です。
 是非、最後まで読んでいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

 1941(昭和16)年12月~1945(昭和20)年8月までのおよそ3年半、日本とアメリカは戦争をしました。いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)です。しかし、そもそもなぜ日本とアメリカが敵対したのでしょうか。考えてみれば、非常に不思議です。
 というのも、日本とアメリカは太平洋を挟んで地球の裏側に位置する国同士です。よく日本でみかける世界地図は太平洋を中心にアメリカが東側に位置していますが、これは非常に珍しい地図で、世界的に使われている地図はイギリスのロンドンを通る本初子午線を中心としてアメリカは西側に位置しており、日本は東側(極東)に位置しています。
 中国やソ連のような近隣諸国とならまだしも、なぜ遠く離れた国同士がケンカをしてしまったのでしょうか。

 日本がアメリカに戦いを挑んだのは、アメリカが日本に対する石油の輸出を止めたことだとされています。当時、日本は国内で消費する石油のおよそ8割をアメリカに依存していました。その石油の輸出を止められてしまえば、日本の軍事や産業がストップしてしまうのは当然です。

 なぜ、アメリカは日本にそんな嫌がらせをしてきたのか。

 表向きは、アメリカが日本の中国大陸での暴走行為に対して正義の鉄槌を下したということになっています。しかし、国際関係にそんなキレイごとは存在しません。
ということで、今回は日米開戦の1回目ということで、「そもそも日本とアメリカはなぜ対立するようになったのかについて見ていきたいと思います。

日本とアメリカの対立は満州問題に遡ります。しかし、アメリカにとって大事な貿易相手国(お客さん)である日本に対しアメリカは当初、宥和的でした。そんな中、日本が中国大陸での権益を拡大させ続けることに危機感を覚えたルーズベルト大統領は日本やドイツを‘病原菌‘と見なすようになるのでした。

 アメリカが日本を敵視するようになったのは、1904(明治37)年に勃発した日露戦争にさかのぼります。他の列強諸国に比べ、植民地競争で出遅れていたアメリカは中国での権益が欲しかった。
 中国大陸とは非常に魅力的な場所です。資源は豊富だし、自国の工業製品を買ってくれる人口も多い。気候も温暖で港もたくさんある。経済活動には絶好の場所と言えました。その中でもアメリカが特に狙っていたのが大豆など豊富な農業生産力がある満州でした。

 19世紀、満州はロシアの勢力下に入ったものの、そのロシアが日本との日露戦争で劣勢に立たされたことで、満州地帯は宙に浮いた状態となりました。
アメリカは日露戦争の講和の仲介を行う代わりに、南満州鉄道を日本と共同経営をする権限が欲しいと申し出て、日本もそれを承認しました。
 そして、アメリカのポーツマスで行われた講和会議によって日露戦争は日本の勝利に終わりました。
 しかし、日本は当然のごとく南満州鉄道を独占し、アメリカとの共同経営を拒否しました。

「おいおい。これでは話が違うだろう。」

 アメリカの日本に対する敵対心が初めて芽生えた瞬間でした。

 アメリカ国内でも日本が白人国であるロシアを降したことは衝撃であり、黄禍論(イエロー=ぺリル)が吹き荒れて、日本人移民に対する差別・偏見が酷くなっていきました。
 もともと、日本人移民は勤勉なうえに、生活習慣がアメリカ人とは大きく異なっており、白人社会と交わろうとしない。そのような根本的な性格の違いによる違和感も相まって、アメリカ国民の日本人移民に対する嫌悪感が募るようになりました。
 それを一気に沸騰させたのが、今回の満州問題だったのです。

 

 その後、中国では1911年に起きた辛亥革命の時、清が倒され、新たに中華民国が誕生しました。そのために中国の政情は不安定になり、中国大陸における列強の権益が脅かされるようになりました。
 そんな中、日本は満州における権益を死守するために、1931(昭和6)年に満州事変を起こして、翌1932年には満州国の建国宣言をしました。

 この時のアメリカ大統領はハーバート・フーヴァーでしたが、フーヴァー大統領は日本に対しては非常に宥和的な対応しました。1930年のロンドン海軍軍縮条約では、日本の主張をほぼ飲んでくれたし、満州国建国に対しても非常に寛容な態度を示しました。
 通説では、満州国の建国は全世界から反対され、国際連盟に認められなかったために、日本は国際連盟を脱退せざるを得ず、結果的に国際的な孤立をしてしまったとされています。
 しかし、実際に満州国建国に強く反対していたのは、主にポーランドチェコスロバキアのようなヨーロッパの小国でした。彼らは大国が小国を再び軍事力によって侵略するという前例を作りたくなかったのです。

「ようやく平和な時代が訪れ、民族自決で我々は独立出来たのに・・・。また大国の支配に苦しまなくてならないのか?」

 そんな小国の強い主張にイギリスやアメリカなども同情してしまっただけなのです。

 ですが、イギリスやアメリカなどの大国としては、日本の満州国などどうでも良いものでした。
 というのも、この時代、イギリスもアメリカも世界恐慌の対応で忙しく、アメリカ国民はリンドバーグの息子誘拐事件に大注目しており、日本の満州国のことなんて、まるで無関心だったのです。
 国民からすれば、遠くの国の国際紛争よりも、自国のワイドショーの方に興味を示すものなのです。
 そんな中、アメリカの国務長官スチムソンだけが独りよがりにも「アメリカは満州国を絶対に認めない!これは明らかな9ヵ国条約違反だ。」と主張していました。
 しかし、フーヴァー大統領の本音としては「満州国?どうぞ、好きにやってください。」という感じでした。

 そんな中、日本が国際連盟からの脱退宣言をしたのと同じ年、1933年3月4日、世界恐慌に上手く対処できなかったフーヴァー大統領が大統領選挙に負け、替わりにフランクリン・ルーズベルトが第32代アメリカ大統領に就任しました。
 しかし、ルーズベルトも日本との友好関係を重視し、満州国問題についても一定の距離を置いていました。ルーズベルトは将来における「日中両国による中国経済の共同支配」も視野に入れながら、日本との協調関係を模索し続けたのです。
というのも、ルーズベルトは大統領選挙の際、「我々は皆さんの夫や恋人、兄や弟を戦争に送りこむことはしません。」という公約しているてまえ、むやみに日本と戦争をすることは出来なかったのです。
 それに1930年代を通して、日本とアメリカは経済的に互いに依存しており、日本からアメリカへの輸出額は、日本の総輸出額の16%を占めており、アメリカから日本への輸出に至っては、アメリカの総輸出額の34%を占めていました(国別で第一位)。
 つまり、アメリカにとって日本とは大事な貿易相手国(お客さん)であり、世界恐慌の後遺症から中々脱却出来ないアメリカにとって、日本への輸出は重要な外貨収入源だったのです。

 しかし、1935年から始まったイタリアのエチオピア侵攻、1936年に始まったスペイン内戦によるドイツとイタリアの介入、そして1937年に日中戦争が始まるなど、次々に世界の平和秩序が崩壊する出来事が起きてしまいました。

 これを見たルーズベルトはシカゴで次のような演説を行いました。

ベルサイユ条約やパリ不戦条約、9ヵ国条約を無視した‘戦争‘という病が世界中に広まりつつある。このような国際的無政府状態を容認してよいのだろうか。戦争はアメリカ国民の平和を脅かす伝染病であり、その治療のためにはその病原菌を隔離する必要がある。」

 後に「隔離演説」と呼ばれるこの演説は、日本に中国市場を独占される恐れを感じたルーズベルトによる日本も含めたファシズム勢力への批判を国民に呼びかけたものでした。

 しかし、アメリカ国民にとって戦争とは、兵器などの軍需品を取り扱う特定の企業も儲けさせただけで、他国を救うために若者を死に至らしめる厄災でしかなく、そんな根強い厭戦ムードによって、ルーズベルトが期待した効果は生まれませんでした。

 そんな中、1938(昭和13)年11月に、日本の近衛文麿首相が国策上の方針を声明として全世界に発表しました(第二次近衛声明)。

「日本と満州、そして中国を政治的・経済的・文化的に統合させる東亜新秩序を建設する」

 これを聞いたルーズベルト率いるアメリカ政府は、日本の中国市場独占の可能性に危機感を覚え、アメリカは日中戦争で中国側を支援する方策へと路線変更しました。

 それから1か月後の同1938(昭和13)年12月15日、ルーズベルトは中国(蒋介石率いる国民党)政府に2500万ドルの借款を供与することを発表しました。
 さらに、ビルマ(現・ミャンマー)から中国南部雲南省を通り臨時政府の置かれた重慶にいたる「援蒋ルート」を開発し、対日宣戦布告もされていないにも関わらず、軍用機パイロット集団「フライングタイガース」およそ300人を中国大陸に派遣するなど、公然と蒋介石軍の支援を始めました。

フライング・タイガース・・・日中戦争時に中国国民党軍を支援した米国義勇軍の愛称。彼らの乗る航空機は頑丈で急降下性能にも優れたものでした。)

 こうしてルーズベルトアメリカ国民の支持を待つことなく、大統領権限の範囲内で日本との対立への第一歩を踏み出したのでした・・・・。

 太平洋戦争における日米対立の原因は、当然ですが、日本ばかりにあるわけではない。しかし、日本が反省すべきなのは、中国大陸での戦線をむやみに拡大させてしまったことだと言えます。
 日本人の中には、いまだに日中戦争を「侵略行為」だったという人がいますが、問題なのは、中国を侵略出来なかったことではなく、侵略する気もないのに、ズルズルと戦線を拡大させてしまったことです。これが陸軍の暴走だったといわれる所以(ゆえん)です。
 日中戦争時、日本国内では「暴支膺懲」という言葉が流行りましたが、日中戦争とは、中国を侵略するというよりも、懲らしめるという意味合いの方が強いものでした。
 こうした日本の中国における動きを英米は中国市場を独占しようとしているように映った。それを阻止するためにアメリカは「中国を日本の侵略から守る」と大義を掲げ、日中戦争に介入していったといえるでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。

参考文献
教科書には載ってない 大日本帝国の真実      武田知弘=著 彩図社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
子供たちに伝えたい 日本の戦争          皿木喜久=著   産経新聞出版
テレビではいまだに言えない 昭和・明治の「真実」 熊谷充晃=著 遊タイム出版

【日ソ中立条約】なぜ日本はソ連と手を組んだのか【松岡洋右】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日ソ中立条約】なぜ日本はソ連と手を組んだのか【松岡洋右】」というお話です。

 第二次世界大戦の対立構造を俯瞰的に見てみると、勝敗のカギを握っていたのは、ソビエト連邦(以下、ソ連)であることがわかります。
 その対立構図は、枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)と連合国(イギリス・フランス・アメリカを中心)の対立として知られていますが、どちらの陣営にソ連がつくかで勝敗が分かれたということです。

 ということで、今回はなぜ日本はソ連と手を組んだのかについて見ていきながら、松岡洋右の外交戦略をご紹介していきたいと思います。

日独伊三国同盟は、日本を「悪の枢軸国」の一国に仕立て上げ、英米の反発をさらに強める結果となりました。そこで外務大臣松岡洋右ソビエト連邦を枢軸国側に誘い込むために日ソ中立条約を結びました。日独伊ソの四国同盟で再び圧力をかければ、さすがの英米も譲歩するだろうと考えたのです。

 軍部大臣現役武官制度を使って、三国同盟締結に反対する米内光政内閣を倒した陸軍首脳は、再び近衛文麿を首相として担ぎ上げ、1940(昭和15)年7月19日、第二次近衛内閣として発足させました。

 近衛内閣は‘陸軍の言いなり内閣‘で、陸軍大臣東条英機外務大臣松岡洋右が政治の表舞台で活躍するようになります。近衛は陸軍からの人気を誇る松岡なら陸軍の意見を多少なりとも抑えてくれるだろうと判断したのです。

 始めて外務大臣に就任した松岡は組閣後、すぐに三国同盟締結を急ぎました。
 同1940(昭和15)年9月19日、御前会議で同盟の締結が正式に決定され、9月27日にはベルリンで「世界に新秩序を」というスローガンが掲げられたうえで、日独伊三国同盟が締結されました。
 一方、アメリカでは対日経済制裁を強める政策が着々と進められていました。ホワイト・ハウスは1940年9月26日、「大統領は10月16日以降、全等級のくず鉄・鉄鋼の日本への輸出を全て許可制にすることに同意した」と新聞発表しました。
 日独伊三国同盟が締結されたのはその翌日のことだったのです。

 この同盟締結に激怒したアメリカとイギリスは、それまで共通の敵としていたナチスドイツに加え、日本もナチス同様の敵と見なすようになりました。
 松岡が締結した日独伊三国同盟は完全に英米を読み間違えた同盟となり、それまで日本の支那事変(日中戦争)に反発していた英米の反発をさらに強める結果となってしまいました。
 こうしてヨーロッパの戦争とアジアの戦争が一体化したことで、事態は悪化。今後のアメリカの対日経済制裁は強まると予想されました。

 松岡は新たな対応に迫られます。
 そこで親ドイツ派の松岡が考えたのは、ソ連と不可侵条約を結んでいるドイツをまねて、日本もソ連と不可侵条約を結ぶことでした。

 松岡の外交戦略はこうです。
 英米との対立を避けるためには、日中戦争を片付けなくてはなりません。しかし、ここまで事態が深刻化している以上、英米と直接的に交渉するなど不可能です。
 そこで、独ソ不可侵条約でドイツと事実上の同盟国であるソ連を日独伊三国同盟の力で説得し、日独伊ソの四国同盟を締結、すなわちユーラシア大同盟の圧力によって英米と対等に話をしたうえで、日中戦争を解決しようというのです。
 アメリカやイギリスに圧力をかけるためには、日独伊だけでは少し弱かったのでしょう。しかし、ロシアの国力を革命によって引き継いだソ連には、強力な軍隊も豊富な資源もあります。そんなソ連を味方につけることが出来れば、さすがの英米も譲歩し、日中戦争は収拾、ヨーロッパ戦線も枢軸国陣営の勝利で終えることが出来ると考えたのです。
 以上が松岡の考えるアクロバティックともいえる外交戦略です。

 一方、ソ連がキーマンであることは連合国陣営を熟知していました。
 第二次世界大戦は1939(昭和14)年9月にドイツがポーランドに侵攻したことがきっかけで勃発しましたが、実はその2週間後にソ連ポーランドに侵攻しています。ポーランドはドイツとソ連の東西からの挟み撃ちのような侵攻を受け、両国に分割統治されました。

 それを見たイギリスとフランスは、ポーランドを守るために‘ドイツにだけ‘宣戦布告しました。
 繰り返しますが、ポーランドに侵攻したのは、ドイツだけではありません。ソ連も攻め込んでいます。
 しかし、イギリスとフランスが戦線布告したのは、あくまでドイツ1国だけでした。
 このときのイギリス・フランスは非常に高度な政治的判断をしたと言えます。
 イギリスもアメリカも地政学的にソ連に侵攻することが非常に難しい国です。
フランスとしても、かつての皇帝・ナポレオンが失脚するきっかけとなったのが、ロシアへの侵攻であったことを知っていたのでしょう。
 ソ連には宣戦布告してはならない。どうにかして連合国陣営に取り込まなくてはいけない。


 ソ連は結果的に連合国陣営として参戦するわけですが、最初から連合国陣営だったわけではありません。少なくても1941(昭和16)年前半までは枢軸国陣営として参戦する可能性は十分にあったといえます。
 このとき、ソ連スターリンの指導のもと、バルト3国を併合したり、フィンランドに侵攻(冬戦争)したりしたことで、国際連盟から除名処分を受けていました。
 日本とは潜在的対立はありながらも妥協し、ドイツとも手を組んでいます。

「日本が望めばソ連もきっと不可侵条約を結んでくれるだろう。四国同盟は難しいものではなさそうだ。」

 松岡はそう考えました。
そして松岡はドイツの訪問を経て、1941(昭和16)年3月にソ連を訪問し、翌4月に日ソ中立条約の締結に成功しました。

 日ソ中立条約の締結は、スターリンにとってもメリットがありました。この頃、ナチスドイツの勢いはすさまじく、フランスを降伏に追い込み、イギリスをも降伏寸前まで追い込んでいました。ヨーロッパ戦線はほぼドイツの圧勝に終わると考えたスターリンも、ここはひとつ枢軸国陣営と手を組み、日本のような東アジアの憂いもなくしておきたいと考えたのです。

 これで三国同盟ソ連も加えた日独伊ソによるユーラシア大同盟が達成されるかに思われました。

 しかし、直後に大変な事態が起きてしまいました。
 松岡の日ソ中立条約の締結からわずか3カ月後の1941(昭和16)年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破って、ソ連に侵攻してしまったのです。
 これによって松岡が構想していた四国軍事同盟はあっけなく頓挫してしまいました。

「ありえない。イギリスとの戦いが片付いていないのに、ドイツがソ連に侵攻するなんて不合理だ。」

 しかし、親ドイツ派を貫く松岡は独ソ戦が始まった直後、ソ連の外交官に「三国同盟は日ソ中立条約に優先する」としてあくまでドイツ側に立つとしました。
こうやってソ連の外交官の腰を抜かせた松岡ですが、昭和天皇からも「支那事変(日中戦争)も片付いていないのに、何を言っているのだ」と叱責されています。

 外交政策を全て松岡に丸投げする近衛や陸軍首脳は「ドイツと組めるならそれでいいや」とばかりに追従し、海軍からは「ソ連はともかく、南方はどうする?このままではうちの立場がなくなる」として北進論が消え、「北守南進」の気運が強くなっていきました。するとアメリカは日本が南進政策を強めるごとに警戒心を強めていくのでした。

 それにしても松岡は3か月前に訪独し、現地の外交官やヒトラーにも会っていたにも関わらず、なぜドイツのソ連侵攻を事前に把握できなかったのでしょうか。
 日本の歴史研究家のあいだでは、松岡はドイツのリッペントロップ外相から「ユーラシア同盟などありえない」と忠告されたのに、松岡が無視したからだとされていますが、これは歴史の結果論に過ぎません。

 ヒトラーソ連に侵攻した理由として考えられるのは、3つあります。
 1つ目は、ヒトラーは連合国陣営がソ連を味方につけようと政治的工作をしていたことを知っており、一方で中々降伏しないイギリスに対し、ソ連を攻略することで、その希望を打ち砕き、イギリスから講和を引き出そうという狙いがあったことです。
 2つ目は、ヒトラーが何よりも共産主義を毛嫌いしていたことです。そのため、一度は手を組んだスターリンとの関係も長続きしなかったのです。
 そして3つ目は、ソ連を攻略することで、多くのスラブ人が住む東ヨーロッパ全土をドイツの植民地にしようと目論んだのです。

 つまり、松岡のような合理的な思考をする人間には、ヒトラーのような非合理的な思考をする人間の行動を予測することなど出来なかったのです。

 一方、対日経済制裁を強めるアメリカは、独ソ戦が始まったと見るや態度を急変させました。

 アメリカは日本に対してすっかり強気になり、翌7月に日米交渉の担当にあたっていたコーデル・ハル国務長官による一方的な要求を突き付けてきました。(ハル=ノート)
「日本は中国大陸から全面撤退すること」
「フランス領インドシナからも撤退すること」
「日独伊三国同盟を破棄すること」

 ドイツがソ連に侵攻したことで、ソ連が枢軸国側に参加する可能性はなくなり、アメリカはこの世界大戦を連合国陣営の勝利で終わらせることが出来ると確信したのです。

 しかし、日本にとって、これらの要求は到底、受け入れることが出来ませんでした。
こうした一方的ともいえるアメリカの要求に対して、時の首相・東条英機は、もはやアメリカとの交渉の余地はないと判断し、それまでの和平交渉派から一転、日米開戦を決断するにいたるようになるのでした・・・・。

 このように第二次世界大戦のキーマンとなったのはソ連でした。松岡はソ連を何とか枢軸国陣営に取り込むために日ソ中立条約を結び、日独伊ソによるユーラシア同盟を構想するも、ドイツのソ連侵攻で、その同盟は幻となってしまいました。
 結果的に日本はドイツに振り回され、‘悪の枢軸国‘の1国とされ、最終的に60ヵ国が参加する連合国軍を敵に回すことになってしまいました。
 ソ連と組めなかった枢軸国、ソ連と組むことが出来た連合国、第二次世界大戦はここに雌雄を決したのでした。

以上。
最期まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。


参考文献
「昭和」を変えた大事件         太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
負けるはずがなかった!大東亜戦争    倉山満=著  アスペクト
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史        石川晶康=著   旺文社
子供たちに伝えたい 日本の戦争     皿木喜久=著  産経新聞出版

【日独伊三国同盟】なぜ防共協定は軍事同盟に発展したのか【近衛文麿】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日独伊三国同盟】なぜ防共協定は軍事同盟に発展したのか【近衛文麿】」というお話です。
 ぜひ、最後までお読み頂きますよう、よろしくお願いします。

 今回の記事はかつて日本・ドイツ・イタリアが互いに手を組んだ三国防共協定を軍事同盟にまで発展するストーリーをご紹介します。

日本・ドイツ・イタリアはソ連に対抗するべく締結した日独伊三国防共協定をアメリカやイギリスにも拡大するべく日独伊三国同盟に発展させようとしました。これによって陸軍首脳は万が一、日本と戦えばナチス・ドイツとも戦うことになるぞと英米を牽制する狙いがありました。そうすれば日米通商航海条約の破棄を通告してきたアメリカも譲歩するだろうと考えたのです。

 1936(昭和11)年11月25日、日本とナチス・ドイツは日独防共協定を結びました。
 ヒトラーはもともと、共産主義を毛嫌いしており、ソ連の膨張政策にも警戒(仮想敵国と)するようになりました。
 一方、このときの日本は二・二六事件後に成立した広田弘毅内閣の時でしたが、この協定は外務省の意向を一切無視したもので、陸軍の言いなりの広田内閣は防共協定の締結を追認するカタチとなってしまいました。
 この「防共協定」は「共産主義」を「防ぐ」ことを目的とした協定であり、もしソビエト連邦(以下、ソ連)と戦争になった場合、両国はお互いに採るべき道を協議し、場合によってはソ連をヨーロッパ側とアジア側で挟み撃ちにすることも辞さないという取り決めでした。
 翌1937(昭和12)年11月6日にはイタリアも加わり、日独伊防共協定となったことで、3国はソ連を仮想敵国として対抗するべく互いに手を組んだのでした。

 広田内閣の後、宇垣一成首相、林銑十郎首相と内閣の潰し合いが続く中、元老・西園寺公望が次の首相として希望を託したのが、近衛文麿という人物でした。藤原氏から分かれた摂関家の1つで、近衛家の当主であり、直前まで枢密議員議長を務めており、若くて、ハンサムで、背が高くて、温和な話し方をする首相で、就任当初は国民から絶大な人気を博していました。

 しかし、近衛内閣誕生から1か月後、1937(昭和12)年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけに日本と中国の全面戦争が勃発しました。(日中戦争
優柔不断な近衛は陸海軍の言いなりで戦線を拡大させ、一応、和平交渉を試みるも、頓挫したとみると一転して「爾後、国民政府を対手(相手)とせず」という声明を発表するなどして戦線を泥沼化させてしまいました。
こうした中国大陸での戦線が拡大するたびにイギリスやアメリカからも反感を買うようになりました。
 イギリスは、ずっと前から中国を巨大市場として開拓しており、それが日本の侵攻によって損なわれていることに反発していたのです。
また、中国進出に遅れたアメリカは、日本の「抜け駆け」的な中国進出は9ヵ国条約違反であるとして非難するようになりました。
 こうして日本という共通の敵が現れたことで、英米両国は互いに手を組んだのです。
 このように日中戦争の泥沼化は英米との対立という新たな問題を日本に突きつける結果となってしまい、日中戦争の事態を収拾できないと見た近衛は結局、1939年1月に総辞職。平沼騏一郎が首相の後を継ぎました。

 1939(昭和14)年とは、日本にとって大きな事件に相次いで見舞われた年でした。
 1つは1939(昭和14)年5月~9月に起きたノモンハン事件です。この事件は、満州国とモンゴルとの国境(ノモンハン)で起きた戦争ですが、モンゴル軍にはソ連軍機動部隊が、満州軍には関東軍がそれぞれ加勢し、両勢力は大きな損害を出しながら戦闘を続けていきました。

 もう1つは同1939(昭和14)年7月のアメリカによる日米通商航海条約の破棄通告でした。これは突然の通告で、条約の失効は破棄通告から6か月後よされましたが、もし失効すればアメリカから石油をはじめ鉄鉱石や屑鉄、工作機械などが輸入出来なくなってしまいます。そうなれば日中戦争を続けることは出来ません。

 中国、ソ連、イギリス、アメリカと徐々に日本に対する包囲網が形成されつつある中、日本の陸軍は防共協定を結ぶナチス・ドイツに頼るようになりました。
しかし、そのナチス・ドイツが1939(昭和14)年8月23日にソ連独ソ不可侵条約を結んでしまいました。ソ連を警戒するためにドイツと組んだのに、そのドイツがソ連と組んでしまうという事態は、ノモンハンソ連と抗戦状態にあった日本を大きく失望させました。
 ヒトラーは日本に何も知らせず、一方的にソ連と手を組んだのです。
 この知らせを聞いた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という言葉を残して内閣を総辞職し、ノモンハン事件も日本の大惨敗の終わり、国境もソ連の主張を呑まざるを得ない状況になってしまいました。

 平沼の後を継いだのは、阿部信行という陸軍軍人でした。阿部が首相就任2日後の1939(昭和14)年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、3日にはイギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦の幕が開いたのです。
独ソ不可侵条約の締結からわずか2週間でそれまでヨーロッパの和平は破られたのです。
 こうして英仏と戦争状態となったヒトラーは、日本にある提案をしてきました。
 それは、現在結んでいる三国防共協定を三国軍事同盟に発展させ、仮想敵国をソ連だけでなく、アメリカやイギリスにも拡大しようとする案で、3国のうちの1か国が英・米・ソのいずれかと開戦した場合、他の2か国も参戦するというものでした。

 一方的にソ連と手を組んだうえに、いざ自国が戦争状態になったら、今度は軍事同盟を提案してくるという非常に勝手なドイツですが、陸軍首脳部にとってはまさに救世主ともいえるものでした。
 というのも、日中戦争の泥沼化に伴うアメリカとイギリスの対立に交渉で解決することが出来ないと見た陸軍首脳部は、ヨーロッパで勢力を強めるドイツと手を組むことで対抗し、万が一、日本と戦争した場合、ドイツとも戦争をすることになるぞと英米を牽制出来ると考えたのです。
 そうなれば、経済制裁をしてくるアメリカも譲歩するのではないかという期待もありました。
 この時、ヒトラーはすでに隣国オーストリアの併合を済ませ、チェコスロバキアのスデーデン地方割譲を英仏にも認めさせており(ミュンヘン会談)、さらに1939(昭和14)年3月にはプラハに進駐してチェコスロバキアそのものを解体するなどナチス・ドイツははっきりとヨーロッパ制覇に向けて踏み出していきました。
 こうしたドイツの勢力拡大を目の当たりにした陸軍首脳はすっかり乗り気になり、防共協定の強化という名目で日独伊三国同盟案を政府に提出しました。

三国同盟締結に急ぐ陸軍首脳部に対し、米内光政ら海軍首脳部は、そんなことをすれば英米の反発をさらに強め、アメリカの対日経済制裁はさらに強まるだろうととして同盟締結に猛反対しました。三国同盟締結をめぐって陸軍と海軍は対立したのです。

 しかし、この同盟案に反対したのは、米内光政海軍大臣山本五十六海軍次官、それに海軍省の井上成美軍務局長のいわゆる‘海軍トリオ‘と呼ばれる海軍の首脳部で、彼らはアメリカの日米通商航海条約の破棄は日中戦争を続ける日本に対する経済制裁であることをしっかりと見抜いており、こうした状況で英米をも共通の敵とする三国同盟が結ばれたら、日米貿易はどうなるのか。
 そうなれば、日本はいよいよ世界経済からシャットアウトされてしまいます。

 こうして三国同盟締結をめぐる陸軍と海軍の対立が始まりました。

 同盟案の承認を迫る板垣征四郎陸相は言いました。
「我が国に英米との戦争に勝ち目はない。ドイツと手を組み、英米を牽制するのだ。」
 しかし、承認を拒否する米内海相は反論しました。
「確かに、我が国は英米との戦争に勝ち目はありません。しかし、ドイツと手を組めば、そんな英米の反発をさらに強めてしまいます。」
 両者に共通しているのは、日本はイギリスやアメリカとの戦争には勝てないということでした。目的は同じでも手段が異なる両者の意見が一致するはずもなく、会談は延々と続きました。

 そんな陸海軍の対立を受けた阿部信行首相は、政権運営の自信をなくし、翌1939(昭和14)年末に総辞職し、その後、昭和天皇三国同盟締結に消極的であることを知った元老・西園寺は海軍大臣の米内に組閣を命じました。

 その頃、ポーランドに侵攻したドイツは、凄まじい快進撃を続けており、同じくポーランド侵攻を開始したソ連軍とブレスト・リスクで出会い、ポーランド
完全に分割してしまいました。
 その後、ナチス・ドイツは西ヨーロッパへと戦線を拡大させ、翌1940年4月にデンマークを占領、続けてノルウェーも制圧、5月に入るとベルギー、オランダ、ルクセンブルクにも兵を進めました。そしてドイツ軍は遂にフランスにも侵攻し、英仏軍をダンケルクに追い詰めて潰走させ、同年6月14日、パリを占領しました。
こうしたドイツ軍の怒涛の快進撃を目の当たりにした日本の陸軍は、再び三国同盟締結に走り出しました。

「いずれこの戦いはドイツの勝利で終わる。バスに乗り遅れるな!」

 しかし、そのためには三国同盟締結に反対する米内を首相の座から引きずり降ろさなくてはいけません。

 倒閣は簡単です。
 復活した軍部大臣現役武官制度を利用して、陸軍大臣を辞任させ、後任の陸軍大臣も指定しなければ、内閣を成立せず、米内内閣は総辞職をせざるを得なくなります。
これによって、米内内閣を崩壊させた陸軍首脳部は、優柔不断な近衛文麿を再び首相として担ぎ上げ、同1940(昭和15)年7月19日、第二次近衛内閣として発足させました。
 第二次近衛内閣は通称‘陸軍の言いなり内閣‘とも呼ばれ、東条英機松岡洋右が政治の表舞台で活躍するようになります。
 第二次近衛内閣は組閣後、早速、三国同盟締結を急ぎました。
 同年9月19日、御前会議で同盟を結ぶことが決定され、9月27日にはベルリンで「世界に新秩序を」というスローガンが掲げられたうえで、日独伊三国同盟が締結されました。

 しかし、この三国同盟に対し、アメリカ・イギリスは譲歩どころか、大激怒し、強硬姿勢をとるようになりました。つまり海軍トリオの予想とおりの展開になったのです。

 アメリカのルーズベルト大統領は日独伊が目指す世界秩序は「全人類を支配し、奴隷化するための権力と金力との邪悪な同盟」であるとラジオで呼びかけ、この世界大戦を悪の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)と正義の連合国(アメリカ・イギリス・フランス)の戦いであるとやさしく図式化したのでした。

 このようにアメリカ・イギリスとの対立をさらに悪化させてしまった近衛内閣は結局、その責任を取るように以後、対米和平に尽力するようになります。

 今回は日独伊三国同盟をご紹介しましたが、陸軍の謀略によって締結されたこの同盟によって、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争が一体化し、日本は枢軸国の一国として仕立て上げられた結果、多くの日本人が耳を覆いたくなる‘日米開戦‘へと発展してしまいました。
 「陸軍悪玉論・海軍善玉論」の由来はここから来ていますが、これは結果論に過ぎません。陸軍も海軍もアメリカと戦争をしたくなかったのです。
当時の官僚達の誰もが、アメリカとの戦争には絶対に勝てないことを知っていました。
そんな中、自分達なりに外交のグランドデザインを描き、模索しながらも何としても対米開戦を回避しようとしていたことは間違のない事実だったのです。

参考文献
「昭和」を変えた大事件         太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
今さら聞けない日本の戦争の歴史     中村達彦=著      アルファポリス
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著      彩図社
教科書よりやさしい日本史        石川晶康=著      旺文社
教科書よりやさしい世界史                    旺文社