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【朝鮮戦争】あわや第三次世界大戦!?なぜ朝鮮は南北に分断したのか

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【朝鮮戦争】あわや第三次世界大戦!?なぜ朝鮮は南北に分断したのか」というお話です。

 朝鮮半島はほぼ38度線に沿って走る軍事境界線を「国境」として、南北に分かれています。北側には朝鮮民主主義人民共和国、南側には大韓民国という2つの国に分断されており、国境から南北約2キロにわたって非武装地帯が設けられ、朝鮮戦争が休戦になってから60年以上経った現在も、人の立ち入りが禁じられています。
 なぜ朝鮮半島は北緯38度線を境にして2つの国家に分断してしまったのでしょうか。この国家分断の原因は日本の朝鮮支配とその後の米ソの争いにあった。

 1945(昭和20)年に太平洋戦争が終わるまで、朝鮮半島は35年間、日本が支配していました。
 それが日本の敗戦によって、朝鮮半島は解放されました。カイロ宣言の中には朝鮮の独立が明記されており、日本が敗戦した当日の8月15日、早くもソウルで呂運享を中心とした建国準備委員会が組織されました。
 そして翌9月6日には委員会が発展的に解消され、朝鮮人民共和国の樹立を宣言しました。
 こうして朝鮮半島主権国家として独立するかに思われました。

 ところが、そんな朝鮮人を頭越しに、アメリカとソ連の間で朝鮮半島の南北分断案が発生してしまい、南からはアメリカ軍が、北からは満州を席捲したソ連軍がそれぞれ進駐し、それぞれ9月には早くも軍政が開始されました。
 当初、日本に勝った連合軍は、朝鮮半島に独立国が成立するまで最大5年間、米英ソ中(当時は中華民国)で共同統治することを計画していました。しかし、アメリカとソ連の間で意見の対立が発生し、計画が思うように進まず、南北が分断されるようになってしまいました。
 この対立は「冷戦」と呼ばれるもので、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営の対立構造で、第二次世界大戦終結前からその対立は始まっていました。
 原爆投下によってアメリカに日本の権益をゴッソリ持っていかれたことに焦りを感じたソ連は日本がポツダム宣言受諾後も、千島列島を占領し続けるなどの悪行を続けました。
 ヨーロッパ方面でも東欧諸国が次々とソ連支配下に入り、共産主義化されていきました。これに対し、米英を中心とする資本主義陣営も同盟国を固めていきました。その過程で分断されたのが、敗戦したドイツだったのです。

 そんなソ連共産主義化は、東アジアにも及び、中国では毛沢東率いる中国共産党を支援し、アメリカが支援する蒋介石率いる国民党との内戦に勝ち、1949(昭和24)年に共産党が指導する中華人民共和国が成立しました。蒋介石率いる中国国民党軍は台湾に逃れました。
この対立は朝鮮半島にも及びました。

朝鮮半島に南北それぞれの政権が誕生したのは日本の敗戦から3年後の1948(昭和23)年でした。
まず、南側では選挙を経て大統領に選ばれた李承晩(りしょうばん)が、同年8月15日に大韓民国の樹立を宣言しました。
北側でも、ソ連軍の支援を受けた金日成(きむいるそん)が北側単独政権樹立へ動き、大韓民国成立の翌9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。
こうして朝鮮半島に住む同じ民族が南北2つの国家に分断されました。
さらに1950年1月にはアメリカが韓国と相互防衛援助協定を結び、同年2月には中国とソ連も中ソ友好同盟相互援助条約を結び、東西両陣営の緊張が高まっていきました。

長い間、朝鮮戦争は北と南、どちらが最初にしかけたのかが、論争の的となってきました。しかし、1990年初頭に冷戦が終結し、旧ソ連崩壊とともに公式文書が公開されたことで、北朝鮮が先に攻めていたことが判明しました。

北朝鮮が侵攻を決めたきっかけは、北朝鮮金日成ソ連スターリン、中国の毛沢東の3者の思惑が一致したためであり、祖国統一を希望する金日成に対し、ソ連スターリン書記長は朝鮮が統一されれば東アジアにおいて西側陣営を圧倒することが出来ると考えており、中国の毛沢東(もうたくとう)国家主席も自国の統一事業が一段落したことで、朝鮮支援にエネルギーを注げるようになっていました。

3者のスタンスとして、スターリンは武力で南を解放することには慎重だったが、金日成ソ連・中国が後ろ盾についてくれたことでやたらと強気になり、毛沢東も朝鮮を支援するとの合意が得られたことで、南への侵攻が決定されたというのが真相のようです。
もうひとつの要因はアメリカのアチソン声明です。
同1950(昭和25)年1月のアメリカのディーン・アチソン国務長官アメリカ(西側陣営)の防衛ラインを発表しました。
アメリカの極東防衛ラインはアリューシャン列島~日本列島~琉球王国(沖縄は当時はアメリカが占領していた)~フィリピン~オーストラリアを結ぶ線であり、これを守る」
アメリカとしてはこれでソ連共産主義勢力を食い止めようとしたのです。
このアチソン声明を聞いた金日成朝鮮半島を統一のために開戦を決定しました。
「米軍の防衛ラインには朝鮮半島と台湾が除外されているではないか。最前線の韓国を見捨てたな。今こそ朝鮮半島を我が手中に収めるときだ。」
米軍の介入を懸念していた金日成は、アチソン声明を聞いてチャンスとばかりに韓国に攻め入りました。
アメリカはここにきて、ようやく自分たちが危機的状況に立たされていること悟ります。
なぜ、日本が明治以来、朝鮮半島満州支配下におくため、多大な血を注ぎ込んだのか。それを今度はアメリカが身を持って体感することになりました。

1950(昭和25)年6月25日午前4時、北朝鮮の人民軍が38度線を一斉に南下して、韓国に攻め入りました。北朝鮮軍の兵力13万5000人に対して、韓国軍は約9万8000人でした。装備的にもソ連軍の支援を受けている北朝鮮軍に比べ、韓国軍は明らかに劣っていました。
北朝鮮軍はソ連のT34戦車を先頭に進撃し、韓国軍は対戦車砲やバズーカ砲で反撃するものの、T34戦車の分厚い装甲にまったく歯が立ちません。
これにより、北朝鮮軍は開戦からわずか3日でソウルを占領し、一挙に半島統一に向けて南進していきました。

北朝鮮軍の全面的な韓国への侵攻に対して、国連安全保障理事会は6月25日午後5時(米東部時間)、北朝鮮に対し戦争行為の即時停戦と38度線への撤退を要求する決議を採択しました。
しかし、拒否権を持つソ連は、常任理事国の1つに入っている中華民国が台湾に逃れ、大陸に成立した中華人民共和国と合同しないことに抗議しして、出席をボイコットしていました。
これによって、7月7日には国連軍の創設がすんなりと決定し、国連軍の朝鮮派遣が始まりました。
国連の加盟国は、主力となるアメリカが任命する司令官の指揮下に部隊を派遣するよう韓国された。
トルーマン米大統領が国連軍事最高責任者に任命したのは、日本に駐留していたマッカーサー元帥でした。
マッカーサーは9月15日、仁川逆上陸作戦を決行しました。
仁川は朝鮮半島西岸・北緯38度線よりやや南に位置しています。半島南部の釜山周辺に追い詰められて潰滅寸前の韓国軍を攻撃する北朝鮮軍を、背後から包囲して孤立させようという作戦です。軍部内には仁川は潮位の干満の差が大きく戦術的に困難であるなどの異論があったが、マッカーサーは押し切った。
マッカーサーは上陸直前には半島東側に船舶を集めて囮とし、仁川に250隻の艦隊で4万人の国連軍の上陸を成功させました。
混乱する北朝鮮軍は散り散りになって北に敗走し、追撃する国連軍は38度線を超えて北へ進撃していった。これは安保理決議の内容(現状回復)に反する軍事行動である。国連は、国連軍による38度線の突破を事実上認める決議を後追いで採択し、朝鮮戦争は新しい局面に突入しました。
1950(昭和25)年9月、朝鮮戦争は国連軍の参戦により、一気に韓国が形成を挽回しました。38度線を突破した国連軍は、10月20日には北朝鮮の首都・平壌を占領し、北朝鮮軍を中国国境付近であるの近くまで追い詰めました。
しかし、ここで中国軍が朝鮮戦争に参戦してきました。毛沢東国家主席中国人民解放軍の中に「義勇軍」を組織して、「抗米朝援」のスローガンのもと朝鮮に送る決定をしました。政治的な配慮から義勇軍としているものの、実質的には中国人民解放軍である。
中国義勇軍は18万にもおよぶ大兵力でひそかに待機し、鴨緑光(おうりょくこう)を超えて北上してくる国連軍を迎え撃った。

それでも国連軍は敵陣の真っただ中を突撃していきました。
対する中国軍は数にものをいわせて前進していった。
機関銃による一斉掃射にも真正面から突撃し、死体の山を築きながら、中国軍は前進してきた。その間も中国軍は増え続け、休戦までに約350万人にのぼった。
これには国連軍もたまらず、敗走せざるを得ませんでした。
同1950年11月30日、トルーマン米大統領は、中国軍の参戦はソ連の示唆によるものだと判断した。
実際にソ連の兵士が中国人民義勇軍の軍服を着て、朝鮮人民軍のマークのついた戦闘機に乗り込んで、参戦していました。つまり、朝鮮戦争とは、国連軍・韓国軍と朝鮮軍・中国軍・ソ連軍という、まるで第3次世界大戦をうかがわせるような対立構造だったのです。
トルーマン米大統領朝鮮戦争勃発時から終始一貫して、朝鮮戦争を第3次世界大戦の避けるためにあらゆる手段を講じてきました。
このまま戦争が続くようなら、満州に原爆投下も辞さないという姿勢を見せました。

こうして朝鮮戦争は38度線で膠着状態が続くようになり、両陣営ともこのまま戦争を続けていれば、被害が拡大するだけだと判断するようになりました。
そんな中、朝鮮戦争が勃発してから1年を迎えようとする1951年6月23日、ソ連国連代表のマリクが休戦に関して討議するべきであると述べた。
その放送は、スターリンの肖像を背景にマリクが話すというかなり威圧的なものでした。
これに対してアメリカ政府は当初、ソ連の真意を模索するべきだと慎重な対応をみでたものの、戦争継続は好ましくないと判断し、北朝鮮に休戦会談を提案し、7月10日、北朝鮮領の開城で休戦会談が開かれました。
南側代表は国連軍(実質的には米軍)と韓国軍、北側代表は北朝鮮と中国軍で、場所は38度線付近にある板門店で会談が行われました。

休戦交渉は困難を極めた。休戦ラインはどこにするのか、互いの捕虜はどうするのか、休戦監視委員の構成はどうするのか、休戦から恒久的な解決にいたるにはどうするのかなどが争点となった。

両陣営とも互いに譲らず、休戦交渉は断続的に開かれた。
結局、休戦協定の調印式が行われたのは、交渉開始から2年が経過した1953(昭和28)年7月27日でした。

休戦協定締結が進んだのは、1952(昭和27)年11月に当選したアイゼンハワー倍大統領による積極的な働きかけがありました。28年にはソ連スターリン書記長も死去し、これも休戦実現を後押しした。

こうして2年間トータル1000時間を超える討議の末、朝鮮戦争は休戦となり、ほぼ38度線にそった軍事境界線が韓国と北朝鮮の「国境」となりました。
結局、3年1カ月も続いた朝鮮戦争の被害は現在でも正確に把握されていません。しかし、民間人も含めて300万人以上が犠牲になったことは確かで、生き別れとなった離散家族も1000万を超えています。

朝鮮戦争は現在でも休戦状態であり、繰り返しますが、韓国は「統一なき休戦」に反対して調印をしていません。つまり、いつまた戦争が再開されるかわからない状態なのです。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
昭和を変えた大事件 太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
総図解 日本の近現代史  倉山満=編   新人物往来社
嘘だらけの日米近現代史 倉山満=著 扶桑社新書

【資本主義VS社会主義】冷戦構造をわかりやすく

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【資本主義VS社会主義】冷戦構造をわかりやすく」というお話です。

冷戦とは、第二次世界大戦後に生じた、アメリカを中心とする資本主義諸国(西側陣営)と、ソ連を中心とする社会主義諸国(東側陣営)との対立構図のことです。
両陣営がイデオロギー的に対立し、競って軍備拡張に走りながら、戦争には至らない状態だったため、冷戦(冷たい戦争)と呼ばれました。
「恐怖の均衡」とも言われるように、米ソ両国が互いに地球を滅亡させられるだけの核兵器保有していたという理由から、全面戦争が回避されていたという逆説的な理屈のうえに保たれるというバランスでした。

ことの発端は1945年2月にソ連クリミア半島にあるヤルタで行われたヤルタ会談でした。
ヤルタ会談にはアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連スターリン書記長の三巨頭が出席し、ドイツへの総攻撃と戦争が終わった後の世界体制をどうするかが話し合われました。
ドイツから解放したポーランドギリシャバルト三国といった国々の政策、そして間もなく降伏するであろうドイツの分割占領について決定されました。これらは当時国の意見など一切反映されず、大国同士のみで決定されたものでした。
(これが国際社会の現実です。)
この時、ルーズベルトは、アメリカは太平洋戦線における対日戦で完全な優勢に立っているが、日本はまだ戦う気力が残っていると予測していました。
そこで、アメリカは対日戦による自国の損害・消耗を避けるため、ソ連に対日戦への参戦を要請しました。

しかし、ソ連は日本と中立条約(日ソ中立条約)を結んでおり、その期間がまだ1年残っています。
そこでルーズベルトは対日参戦への見返りとして40年前の日露戦争で失った南樺太(サハリン)の返還や満州権益の回復、千島列島の領有化を認めました。
これを受けてスターリンはドイツ降伏後の3カ月後、日本に宣戦することを約束しました。(ヤルタ協定
しかし、この協定はソ連が日本との中立条約が継続していることから密約とされ、日本はその情報を知ることは出来ませんでした。

さて、領土を見返りとするこの取り決めは、1943年に発表されたカイロ宣言の中にある帝国主義植民地主義)の克服に反するものでした。
同1943年9月のイタリア降伏を受けて、ルーズベルトチャーチル中国国民党政府主席の蒋介石を加えて同年11月~12月に開かれたカイロ会談では、対日戦の徹底的遂行と日本の領土はく奪が決定されました。
つまり、日本が戦争で奪った台湾・満州を中国に返還し、併合していた朝鮮も独立させることとしたのです。
二度にわたる大戦は各国の植民地野心から引き起こされたものでした。
日本の植民地主義を否定する以上、自分たちもそれを克服するというのが、カイロ宣言の理念でした。
しかし、ヤルタ密約は、対日戦の早期終結を図りたいというアメリカの思惑だけでいとも簡単にこれを反古し、そして冷戦の引き金となったのです。

ヤルタ会談が開かれたあと、1945(昭和20)年4月にソ連軍がベルリンに侵攻し、アメリカ軍と合流すると、ヒトラーは自殺、そして翌5月にドイツは連合軍に降伏しました。

これを受けて、7月から8月にかけてベルリン郊外にあるポツダムで、アメリカ、イギリス、ソ連の3巨頭の会談が開かれました。
アメリカは、ルーズベルトの死去後に大統領を引き継いだトルーマン、イギリスは会談の途中で国内総選挙に大敗したチャーチルに代わってアトリーが、そしてソ連スターリン書記長の3首脳による会談が行われ、ドイツの賠償問題やヤルタ協定後にこじれたポーランド問題について話し合われました。

この会談では、対日戦における取り決めはされなかったものの、トルーマン、アトリー、そして蒋介石が加えられた連名で無条件降伏を求めるポツダム宣言が出されました。この時点でソ連の名は伏せられていました。
アメリカは日本を降伏させるために本土上陸なども検討しましたが、犠牲が多くなることを恐れ、ヤルタ会談から引き続き、ソ連に参戦を求めていました。
7月17日、スターリントルーマンに対して参戦の意向を伝えてきました。
しかし、その翌日、16日に行われた原爆実験が成功したという報告を受けたトルーマンソ連の助けを求めずに日本を降伏させる方針に転換します。
戦後の国際社会における主導権争いを見すえたとき、ソ連に借りをつくるのは得策ではないと考えたからです。
ポツダム宣言の中には、領土不拡大の条項も含まれており、アメリカはヤルタ密約でのソ連への見返りを黙殺するつもりでいたのです。
そのためには日本占領における主導権は何としてもアメリカが握らなくてはいけません。そのためにアメリカは8月6日の広島、続く8月9日の長崎へ原爆を落としたのです。
これを見たソ連は広島への原爆投下からわずか2日後の8月8日に、日本に宣戦布告して満州に侵入してきました。
ソ連は、アメリカの一人勝ちで日本の権益をゴッソリ持って行かれることに危機感と焦りを感じました。

したがって、8月14日、日本がポツダム宣言を受諾しますが、ソ連は侵攻を止めませんでした。ソ連は何とか分け前にありつくために、8月28日~9月3日にかけて千島列島の択捉島色丹島国後島歯舞群島に侵攻し、占領しました。(東京湾ミズーリ号で降伏文書に調印されたのは9月2日です。)
島民は故郷である島を追われました。こうしたソ連の行為が北方領土問題として、現在に大きな課題を残しているのです。

こうして第二次世界大戦が幕を閉じたわけですが、同時にアメリカとソ連の対立は深まり、冷戦構造が誕生したのでした。

西側陣営(資本主義) 東側陣営(社会主義)
政治 トルーマン・ドクトリン   (対ソ連封じ込め政策) コミンフォルム   (共産党情報局)
経済 マーシャル・プラン    (ヨーロッパ経済復興援助計画) コメコン      (東欧経済相互援助会議)
軍事 NATO(北大西洋条約機構) ワルシャワ条約機構

原子爆弾の威力で戦争を終結させたアメリカは、その圧倒的な国力を背景に、イギリスに代わって世界の指導・管理に乗り出しました。
一方、ソ連は占領した東欧諸国に共産主義政権を樹立させ、衛星国化していきました。
ソ連バルト海のシュテッティンからアドリア海トリエステを結ぶラインで交流を断っており、チャーチル元首相は1946年にアメリカのウェストミンスター大学で行った演説で、その閉鎖性を「鉄のカーテン」として批判しました。
これに対してアメリカはトルーマン大統領が1947年にソ連「封じ込め」政策の必要をとなえました。(トルーマン=ドクトリン)ついで1947年にアメリ国務長官マーシャルの提案に基づいてマーシャル=プランに基づいて2度の世界大戦に疲弊した西欧諸国の復興を援助することで取り込むことで、ヨーロッパにおける共産主義勢力との対決姿勢を鮮明にしました。(マーシャル=プランは当初、全ヨーロッパの復興援助計画であったが、ソ連をはじめ東欧諸国はこれを拒否しました。)
こうして政治・経済・軍事のあらゆる面で冷戦構造が形成されていったのでした。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
朝日おとなの学びなおし! 昭和時代 保阪正康=著 朝日新聞出版
昭和史を読む50のポイント  保阪正康=著   PHP
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社

【どう違う?】大日本帝国憲法と日本国憲法

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【どう違う?】大日本帝国憲法日本国憲法」というお話です。

大日本帝国憲法 日本国憲法
発布 1889(明治22)年2月11日 1946(昭和21)年11月3日
施行 1890(明治23)年11月29日 1947(昭和22)年5月3日
形式 欽定憲法 民定憲法
主権 天皇 国民
天皇 神聖不可侵 国の象徴
内閣 天皇に対して責任を負う 国会に対して責任を負う
国会 天皇の協賛機関 国権の最高機関
選挙 制限選挙(男子のみ) 普通選挙(男女)
人権 法律で制限 基本的人権の尊重
軍隊 天皇に統帥・兵役義務 戦争放棄・平和主義

 日本国憲法(新憲法)が1947(昭和22)5月3日に施行されてから、すでに70年以上が経過しました。新憲法施行の前日まで存続した大日本帝国憲法明治憲法)は1890(明治23)年11月29日に施行されており、その期間は56年半で、日本国憲法がその長さを超えています。

 しかし、大日本帝国憲法日本国憲法ではその制定背景や過程が全く異なります。
 大日本帝国憲法は、欧米諸国に負けないために明治政府が近代国家を樹立するために公布されたもので、その草案は伊藤博文らが諸外国の憲法調査を行い、主に皇帝の権限の強いプロイセン(ドイツ)の法律を範にしてまとめられました。
 当時は自由民権運動が盛り上がりを見せており、フランス流の自由党、イギリス流の立憲改進党が結成されていました。
 当時、民主主義の先進だったフランスやイギリスを範にした憲法を作成してしまうと、主導権を臣民に奪われると危惧した明治政府は、これに対抗するために皇帝の権限の強いプロイセン(ドイツ)に範にした憲法の作成に着手しました。
 こうして1889(明治22)年2月11日、天皇が第2代首相・黒田清隆に手渡すカタチで発布されました。
 ここにアジア初の近代憲法を持つ国として日本は船出したのでした。

 大日本帝国憲法では、主権は天皇にあり、天皇が定めて臣民(国民)に与えるという欽定形式(欽定憲法)をとり、天皇は元首にして統治権の総攬(そうらん)者であり、神聖不可侵な存在と規定されていました。
「(第1条)大日本帝国万世一系天皇之ヲ統治ス」、「(第3条)天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
 また、天皇は元首にして、統治権の総攬者であると規定されています。天皇統治権の総攬者ということは、立法、行政、司法において天皇がその権限を全て握っているということです。「(第4条)天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」

 翌1890年には帝国議会が開設されました。大日本帝国憲法では、帝国議会(国会)は天皇の協賛機関です。したがって、天皇が法律や予算を成立させる際に、帝国議会は事前に同意を与えます。つまり、帝国議会とは天皇の法律案や予算案に賛成する機関なのです。
 天皇は各大臣の任免権があり、内閣総理大臣天皇から大命が下ります。内閣は天皇の輔弼(ほひつ)機関です。輔弼とは、天皇の機能行使に対し、助言を与え、その全責任を負うことを言います。

 議会は衆議院貴族院の二院制をとり、貴族院華族や勅撰議員などで構成されました。一方で、衆議院議員については選挙によって選ばれることになり、国民の代表者を政府に送り、国政に参加させるという民主政治が行われていました。
 しかしながら、選挙は制限選挙であり、有権者は発布当初、直接国税15円以上を納める25歳以上の男子のみに限られ、その後何度か改正されたものの、最終的には25歳以上のすべて男子のみに留まり、女性の参政権は認められませんでした。
 そして、近代国家樹立にあたって重要になるのは「国防」です。建軍された帝国陸海軍は天皇に統帥しており、国民には兵役義務も課されました。
 軍国主義で独裁的なイメージのある大日本帝国憲法ですが、実は非常に民主主義的で、国民には法律の範囲内としながらも、信教の自由や言論の自由などが認められており、民権派の多くがこの憲法に満足していました。


 そんな欧米諸国に負けまいとして樹立された大日本帝国でしたが、昭和に入り、日中戦争や太平洋戦争によって欧米諸国に屈し、ポツダム宣言を受け入れざるを得ない状況に追い詰められました。
 ポツダム宣言には日本が降伏する条件として「民主主義の推進」、「基本的人権の尊重」、「武装解除」などが掲載されていました。(日本は無条件降伏をしたことが通説になっていますが、そんなことはありません。)
 これらを満たす上で、「天皇主権」、「人権は法律の範囲内で」、「陸海軍を天皇が統帥」などと定められている大日本帝国憲法では都合が悪いのではないかと、GHQ総司令部総司令官のダグラス・マッカーサーの方から提案がありました。
 そこで敗戦からわずか2カ月後に首相になったばかりの幣原喜重郎は、こう言いました。
「現行の憲法明治憲法)は変える必要はないと思うが、やはり不具合もあったと思うので、修正してみる」
 そのうえで国務大臣の松本丞二を委員長とした憲法問題調査委員会を政府内に設置し、改正案の作成に当たらせました。
しかし、提出された改正案は旧憲法大日本帝国憲法)とほとんど変わっておらず、これに呆れたマッカーサーは、 GHG自らが憲法改正案を起草すると決め、占領軍に属していたアメリカ軍将校や何年か弁護士を経験したことのある法律関係者を寄せあつめ、わずか1週間の間に起草された。
しかし、そんな憲法作成集団の中には憲法学者など一人もおらず、アメリカ本国やその植民地フィリピンの憲法案をカンニングして、その文案がごっそりそのまま入っていたりしました。
つまり、かなりいい加減な憲法案で、それを外務省の役人に翻訳させて、日本国憲法のアウトラインが完成しました。

これを見た日本政府もまた呆れました。幣原をはじめ幕僚たちは口々に批判しました。
GHQ憲法のイロハも知らんのか。こんなのを新憲法として出せば、GHQは恥をかくぞ。」
さすがにこのGHQ草案をそのまま新憲法にするわけにもいかず、日本政府は議会審議の過程で追加・修正がされ、1946(昭和21)年11月3日に日本国憲法が公布され、翌1947(昭和22)年5月3日から施行されました。

とにかくGHQは、「軍国主義大日本帝国」を根本から変えるために、
まず、神格化された天皇の存在を否定したことです。しかし、神格化を否定し、単なる国の象徴であるとし、天皇主権も廃止し、国民主権としました。
「(第1条)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

国会とは国権の最高機関であり、唯一の立法機関です。法治国家である日本において、立法権を有する国会は最も強い権限を持っています。
日本国憲法では主権は国民にあります。国会を司る国会議員(衆議院)はそんな国民の選挙によって選ばれた人達です。したがって、国会とは国権の最高機関であるとされているのです。
「(第41条)国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」、「(第43条)両議員は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」
なお、国民の選挙権も20歳以上にまで引き下げられ、全ての男女に与えられました。
人権に関する規定は「表現の自由」や「信教の自由」などが認められ、それらは法律によって制限されることはなく、その権利は国家さえも侵すことが出来ない永久の権利として規定されています。
「(第11条)国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民へ与へられる」

内閣は行政権を有する機関ですが、この行政権全般について、国会に対して連帯して責任があります。つまり、国会が作った法律をきちんと守り、執行し、行政的な役割を果たすのです。そうした中で、衆議院が連帯責任者である内閣に対し、不信任案を可決した場合、当然、内閣は辞めさせられます。
「(第65条)行政権は、内閣に属する」、「(第66条の3)内閣は、行政権の行使について、国会に対して連帯して責任を負う」


そして軍隊に関しては、「戦争放棄」、「戦力の不保持」、「平和主義」が唱えられました。「(第9条第1項)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
しかし、これには当時の幕僚は強く反対しました。平和主義と言えば聞こえは良いですが、ならば国防はどうするのでしょうか。そこで衆議院は修正段階において芦田均の発案により、第9条第2項に「前項の目的を達するため」との字句が加え、自衛のための軍隊保持に含みを残しました。


以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
「昭和」を変えた大事件     太平洋戦争研究会=著 世界文化社
斎藤孝の一気読み!日本近現代史 斎藤孝=著      東京堂出版
やりなおす戦後史        蔭山克秀=著     ダイヤモンド社
教科書よりやさしい日本史    石川晶康=著     旺文社

【五大改革指令】GHQの日本民主化政策をわかりすく

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【五大改革指令】GHQの日本民主化政策をわかりすく」というお話です。
終戦後、GHQの本格的な占領政策の方針は日本の非軍事化・民主化でした。
「非軍事化・民主化」と言われれば、あたかもGHQは日本に平和で平等な社会を創ってくれたように感じてしまいがちですが、平たく言えば「日本弱体化」です。
連合国の立場になって考えてみると、非常にわかりやすいです。
国際社会という檻から逃げた虎(日本)は、山に逃げ込んで各地(中国や東南アジア)を襲いまくった。捕獲チーム(連合国)も何とか捕まえようとするが、手ごわく、何人も犠牲になった。それが超強力な2発の麻酔銃(原爆)でようやく捕まえることが出来た。こんな虎は二度と悪さをしないように、力ずくで抑え込み、牙も爪も引き抜いて、根性(憲法)も叩き直して、心優しい虎に改造する必要があります。
連合軍の戦争はまだ続いており、ここから本格的に「日本をボコボコにする」政策を断行していくのです。

1945年8月15日、鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾後に総辞職し、8月17日に皇族の東久邇宮稔彦親王が組閣しました。1945年8月末以降、連合軍の進駐を受け入れ、旧日本軍の速やかな武装解除、9月2日には降伏文書への調印がされ、正式に戦争が終結したことが確認されました。
さらに敗戦から1カ月あまりたった1945(昭和20)年9月22日、アメリカ政府は「降伏後における米国の初期対日方針」を発表しました。
これは「日本の国家体制を根本から改造し、侵略行為など再びアメリカや東アジアの脅威とならないようにする」ことを究極の目的としたもので、これを受けたマッカーサー率いるGHQは日本を徹底的に非軍事国家とし、民主化を進めていくことにしました。

目的 手段(政策)
軍国主義の廃止 特高治安維持法の廃止
言論及び新聞の自由 プレスコード、検閲
軍のスポンサーを廃止する 財閥解体
小作農から自作農へ 農地改革
資本家を弱体化させる 労働組合の奨励
戦争への反省を植え付ける 教育の自由主義
天皇を神から人間へ 天皇象徴制へ
軍人を処罰する 極東国際軍事裁判
民主的な憲法 日本国憲法の制定

 まず、GHQが行ったのは、徹底した軍国主義の廃止でした。
 さっそく、GHQは1945年10月、日本政府に人権指令を発します。その中には治安維持法特別高等警察特高)の撤廃、共産党員をはじめ政治犯の即時釈放などが含まれていました。
 戦前の軍国主義といえば、「右翼」や「国家主義」のことを指します。GHQはこうした思想を破壊するために、それまで弾圧されてきた「左翼」、「共産主義」を解放することで、
それまで共産主義者社会主義)は危険思想として特高治安維持法によって徹底的に弾圧されてきました。GHQはそんな特高治安維持法を撤廃させたのです。
ところが危険思想である共産主義を解き放てば、日本は再び混乱に陥ってしてしまいます。
しかしGHQは実行しました。GHQにとっては所詮他国の事情だからです。
繰り返しになりますが、GHQの目的は日本を弱体化させることです。そのためにGHQは危険思想とされていた社会主義勢力をも利用しようとしたのです。
(占領初期はニューディーラーとよばれる米国内の左派の主導によって行われていました。)

また、人権指令の中には、言論の自由も奨励されていました。
戦前の日本には表現や言論の自由がありませんでした。
天皇への批判、軍部への批判、国家への批判、戦争への批判・・・・・」
これらの内容の書籍は全て発刊禁止となり、それを口にする人々も憲兵隊によって連行されるなど、弾圧がされていました。
こうした戦前及び戦中期に抑圧されていた思想や言論を解放し、自由を与えなさいという指令です。
これによって、思想や言論の自由など市民的自由の保障が進められたが、一方で、占領軍に関する批判はプレス=コード(新聞発行横領)で禁止され、新聞などの出版物は事前検閲を受けなければなりませんでした。

こうしたGHQが次々に打ち出す政策に東久邇宮はついていくことが出来なかった。なにしろ、閣僚には終戦前の官僚や軍人が混じっているので、「依然として治安維持法は生きている」などと反感を買ったりもした。閣僚たちは戦前期の国家体制をそのまま維持するつもりでおり、G東久邇宮内閣はHQの指令は実行不可能として、東久邇宮内閣は10月9日に総辞職しました。
東久邇宮の後を継いだのは、幣原喜重郎でした。幣原は昭和初年代に「対英米協調外交」を主導してきましたが、軍部の抵抗にあって外相の座を引きずり降ろされていました。
そんな幣原ならば、戦争責任者となる心配がなく、アメリカの歓心を得ることが出来るであろうと判断されたのです。
同10月、マッカーサーは幣原に口頭で「五大改革」を指示しました。
① 選挙権付与による婦人解放
労働組合結成の奨励
③ 学校教育の自由主義化(民主化
④ 民衆生活を脅威に陥れたごとき制度の廃止
⑤ 日本経済の民主主義化

これによって日本の大改造がはじまりました。


最初に行われたのは経済の民主主義化に基づく政策で、財閥や寄生地主軍国主義の温床になったとみて、それらの解体を行いました。財閥解体と農地改革です。
まず、財閥解体ですが、財閥とは、「家族ないし、同族の出資によって持株会社(親会社)を形成し、子会社や孫会社などの株式をまとめて所有し、ピラミッド型支配体制を構築しているファミリー・コンツェルン」のことで特に三井、三菱、住友、安田などは4大財閥と呼ばれました。
少し難しい表現ですが、財閥とは要するに、大きな財力を持ち、一族・同列で様々な分野の企業を独占している超巨大企業のことです。これらの財閥は明治から大正期の日本経済の発展に大きく貢献してきました。
しかし、GHQは戦前の財閥が軍部のスポンサーとなったことで、戦争が助長されたと判断して、直ちに解体を命じました。(実際は違います。戦争とは軍需はあっても、価値を生まないので、本質的には儲かりません。したがって財閥は戦争反対でした。それなのに日本は戦争に突入した。これが‘歴史の謎‘と呼ばれているものです。)
まず、日本1945年11月に三井、三菱、住友、安田など15財閥の資産の凍結と解体が命じられ、翌1946年8月には持株会社整理委員会が設置され、財閥家族や持株会社保有する株が没収され、一般(市場)に売却されました。これによって財閥会社は消滅しました。
また、旧財閥に代わる新たな巨大企業が生まれることを防ぐために翌1947年4月に独占禁止法が制定されました。
さらに、巨大企業による市場の独占は新しい企業の参入を妨げるとして、過度経済力集中排除法が制定され、巨大企業の分割が図られました。当初は325社の企業が対象でしたが、東西冷戦の進行に伴うGHQ占領政策の転換から徹底されず、実際に分割されたのは11社のみでした。

次に農地改革ですが、それまでの日本では小作農たちが獲れた作物の約50%を地主に現物小作料として納めていました。これは江戸時代から変わらない「五公五民」制度で、いわゆる封建制社会のようなしくみでした。
GHQはこうした農民層の窮乏が日本の対外侵略の大きな動機になったとして地主制度を廃止に乗り出しました。
幣原内閣は第一次農地改革案を出しますが、不十分だとGHQに拒否されて、第1次吉田内閣のときに第二次農地改革案がだされました。
ここで自作農創設特別措置法が制定され、それに基づき、政府が地主の土地を強制的に買い上げ、小作農たちに安値で売り渡しました。政府が買い上げる土地は不在地主なのか、在村地主なのかで異なります。
不在地主・・・・農村におらず、農業を行っていない地主のことで、小作地全てを売り渡すこと。
在村地主・・・・農村に住み、農業を行っている地主のことで、1町歩(約1ヘクタール)までの小作地の保有を認め、残る小作地は全て売り渡すこと。(北海道は規模が大きいため、4町歩まで認める。)
これによって小作地全体の約80%が解放され、地主制度はなくなり、多くの農家が自らの農地を得てコメなどの生産意欲を高めました。
こうした農地改革は「封建制度の解体し、民主化そ促進するため」といえば、聞こえは良いですが、一方で地主階級は土地を失い、従来の経済力と社会的威信を失ったことから、やはりこれも日本弱体化政策とみるべきでしょう。

以後、幣原内閣は五大改革を順次、実行させていきました。

婦人の解放とは、女性に参政権を与えることがその中心です。衆議院議員選挙が改正され、選挙資格を20歳以上と引き下げ、男子のみでなく女性にも選挙が与えられました。

労働組合結成の奨励は、GHQが日本の労働者が劣悪な条件に置かれていたことから労働組合の必要性を指示したもので、労働組合を合法化させ、資本家の地位の弱体化を目指しました。
戦前の日本には治安維持法大日本産業報国会という組合活動を弾圧する法律や組織が存在していました。幣原内閣はこれらを廃止し、1945年に労働組合法が誕生。翌1946年には労働関係調整法、1947年には労働基準法が制定され、労働三法がそろいます。
労働組合法には労働者に団結権、団体交渉権、争議権ストライキ権)などが認められ、労働者は権利と賃金を求めて団結して騒ぎを起こすことが出来るようになりました。

しかし、婦人解放や労働組合の奨励は戦前の日本でも衆議院で何度も検討されていた内容です(貴族院が邪魔していた)。
これらの動きは日本を弱体化させるものではなく、むしろ日本を先進国家へと成長させた政策と言えるでしょう。
しかし、ダメージの大きい政策もありました。
それが、学校教育の自由主義化です。
戦前の日本には「皇国史観」と呼ばれるこうした思想が徹底されていました。
「日本は万世一系天皇が統治する神の国である」
「日本国民は臣民(天皇の家臣)として忠君愛国に努める」
GHQはこうした思想こそ、「日本を戦争に導いた危険思想であった」と判断し、こうした教育の解体を行いました。「民間情報教育局(CIE)」という部署を設け、終戦直後の1945年10月から12月までの
教科書に書かれてある皇国の歴史や素晴らしさを教える記述を削除し、新しい教科書を作成しようとしたが、間に合わず、生徒に教科書の不適切な記述を墨で塗りつぶさせるという対処がされました。そのため、墨だらけでほとんど使えないページも出てきました。
さらに軍国主義的な教員も追放(教職追放)させ、道徳(修身)や日本史(国司)、地理の授業もGHQが許可するまで停止されました。

衆生活を脅威に陥れたごとき制度の廃止は、先述の治安維持法特高の廃止、
言論の自由の奨励などになります。

さらにGHQは、「天皇を現人神の国家元首」のまま残しておくと、再び軍国主義の求心力になりうると判断し、天皇象徴制とするよう指示しました。
1946(昭和21)年元旦、天皇に「人間宣言」を発表させ、新憲法制定における天皇の地位を象徴とする方針を掲げました。これによって天皇は威光ある存在であっても、政治的な実権は持っていない地位に納まりました。

そして、最大の日本弱体化政策といえる2大政策があります。それが極東国際軍事裁判東京裁判)と日本国憲法の制定です。

戦勝国は日本に対し、武装解除公職追放だけでなく、戦争犯罪者の処罰も行いました。GHQ侵略戦争を計画・実行して、「平和に対する罪(A級戦犯)」を犯したとして、戦前・戦中における多くの指導者を敗戦直後から次々に逮捕していきました。
1946(昭和21)年4月、まずは28人の容疑者が極東国際軍事裁判所に起訴されました。審理の結果、1948(昭和23)年11月、東条英機をはじめ7人の死刑をはじめ、全員(病死など3人を除く)に有罪判決が下され、翌12月に死刑が執行されました。
A級戦犯の他に、戦時中に捕虜や住民を虐待し、戦時国際法をおかしたもの(B・C級戦犯)としてイギリス、オランダ以下関係諸国がアジアに設置した裁判所で5700人余りが起訴され、984人が死刑、475人が終身刑判決を受けました。
しかし、これらの裁判は事後裁判であり、客観的事実があったわけでもない。
いわゆる「勝てば官軍、負ければ賊軍」であり、戦勝国側の犯罪行為は裁かれず、勝者が一方的に‘正義の理論‘を振りかざし、被告人を次々に裁いていく復讐ショーでした。

1945年10月、幣原喜重郎内閣は、マッカーサーより憲法の民主的な内容に改正するべきではないかと示唆されていました。これを受けて幣原首相は「憲法問題調査委員会」を設置し、国務大臣の松本丞二を委員長に任命して改正案の検討に当たらせました。
しかし、憲法問題調査委員会が作成した改正案、いわゆる「松本案」の内容が毎日新聞にスクープされ、GHQに提出する前にマッカーサーに漏れてしまいました。
マッカーサーは松本案を見て、「以前の憲法と全く変わっていない」として、その内容に呆れ、松本案を却下することを決めました。
代わりにGHQは「仕方ないから我々が代替案を作成する」と日本政府に伝えました。
すると、わずか9日間で憲法改正案(マッカーサー草案)が日本政府に提示されたのでした。
しかし、ここで1つ気になる点が浮上してきます。なぜ、時の最高権力者であるマッカーサーがたった一社の新聞を鵜呑みにしたのだろう。そして法律の専門家でもないマッカーサーらがわずか9日間で新憲法を作り上げてしまったのだろうか。
おそらく、マッカーサーは日本政府に法律を作らせるつもりなど鼻からなく、GHQが最初から作るつもりであり、もうすでに完成していた可能性が非常に高いです。
つまり、GHQは、「日本政府に憲法を作らせたけど、全然ダメだったから、仕方なく我々が作りました。」という敗戦国に憲法作成の権利を与える心の広いアメリカを演出するために、却下する前提で日本政府に作らせたのでしょう。証拠はありませんが。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
やりなおす戦後史             蔭山克秀=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント        保阪正康=著 PHP
子供たちに知らせなかった 日本の「戦後」 皿木喜久=著 産経新聞
教科書よりやさしい日本史         石川晶康=著 旺文社

【マッカーサー来日】本当の悪夢はここからはじまった

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【マッカーサー来日】本当の悪夢はここからはじまった」というお話です。

 戦後の日本にはまったく主体性がありません。
 明治時代に誕生した大日本帝国のように曲がりなりにも主権国家として国を運営していたあの時の威厳が完全にありません。
 とにかく行き当たりばったりな政策が続き、その軸がブレブレです。
 戦後、日本は弱くなってしまったのです。

 アメリカの占領政策によって、戦後日本はアメリカに憧れ、アメリカの顔色をうかがい、アメリカに守ってもらい、アメリカに振り回され、アメリカで売れる工業製品ばかり作ってきました。
 そして2008年のリーマンショックでともに沈没しました。

 現在、トランプ政権下のアメリカは今後、世界的な地位をどんどん落としていくことでしょう。それとともに日本もどんどん落ちていきます。1985(昭和60)年の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて遠い昔の話。今はそんなことが嘘のように日本の経済は本当に弱体化してしまいました。

 なぜ、こうなってしまったのでしょう。
 ということで、今回から戦後日本史(現代史)の方に入っていきます。1回目から非常に暗いタイトルですが、GHQによる日本占領政策を見ていきたいと思います。

 

 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日には昭和天皇の肉声が録音された玉音放送がラジオから流れ、日本国民は大東亜戦争が敗戦に終わったことを知りました。そして連合国による占領がはじまりますが、事実上、アメリカ1国の占領となりました。
 鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾後に総辞職し、占領政策を受け入れたのは皇族の東久邇宮稔彦親王(ひがしくにのみやなるひこしんのう)による内閣でした。

 そして1945(昭和20)年8月30日、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が、厚木の海軍飛行場に、愛機「バターン号」で来日しました。

 そんな強気な態度で来日したマッカーサーでしたが、内心ではビクビクしていました。
日本軍の抵抗が予想以上に激しく、4年半にも及んだ死闘の末、アメリカも疲弊していました。
日本が降伏に応じたとはいえ、いつ復讐されるかわからない。二度と自分達に逆らえないように徹底的に叩き潰す必要がありました。
一方、そんな恐ろしく手ごわかった日本本土に上陸するのは、本当に勇気が要ることでした。
 彼はコーンパイプにサングラスという非常に威圧的な態度で来日することで精神的に優位に立とうとしました。まさに「本当は臆病ないじめっ子」そのものです。

「さぁ、あの時の屈辱を晴らすときが来た。ジャップめ、ざまあみろ。」

 マッカーサーは太平洋戦争時、南大西洋地域総司令官としてフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の部下を見捨てて、オーストラリアに亡命しました。
その時彼が残した言葉が「アイ・シャル・リターン(私は必ず戻ってくる)」でした。
しかし、見捨てられたバターン半島の兵士たちは士気を失い、次々に日本軍に投降し、捕虜となりました。そんな兵士たちが収容所に向かう途中、マラリア疲労に次々に死に、到着時には5万人余りにまで減っていました(バターン死の行進)。
「さあ、じっくりと叩きのめしてやる!」

マッカーサーハリー・トルーマン大統領からGHQ(連合国軍最高司令総司令部)の最高司令官に任命されていました。
天皇および日本政府の国家統治の権限は貴官に従属する。その範囲に関しては日本側からいかなる異議も受け付けない。」
として米政府からマッカーサーは絶大な権限を与えられていました。GHQとは、ポツダム宣言の執行のためにつくられた組織で米英ソ中仏など主要戦勝国をはじめ11か国で構成される「極東委員会」の下に設置されていました。
マッカーサーの任務は日本の民主化であり、

マッカーサーがやろうとしたのは、日本の「民主化」という名の「弱体化政策」でした。

来日したマッカーサーは、その日、横浜のホテルニューイングランドに宿泊し、GHQの仮本部を横浜関税ビルに置きました。
そして翌9月2日、東京湾内に碇泊していた戦艦「ミズーリ号」上で行われる降伏文調印式に立ち会うのでした。その碇泊位置は、92年前の1852年、ペリー率いる4隻の軍艦が来日し、その旗艦「ポーハタン」が停泊したのと同じ緯度・経度のところでした。
さらに、ミズーリ号の甲板には2つの星条旗が掲げられていました。1つは真珠湾攻撃がされた時のワシントンのホワイトハウスに掲げられていた48星の「星条旗」で、もう1つは1853年のペリー率いる艦隊の旗艦である蒸気船「サスケハナ」号に掲げられていた31星の「星条旗」でした。(ペリーは1952年と53年の計2回来航しています。)

マッカーサーはわざわざ博物館からペリー来日当時の「星条旗」を持ってきていたのです。
『かつて日本は開国を迫られた際、ペリーから「開国しなければ、江戸に向かって大砲を撃つぞ。」と恫喝され、やむを得ず開国に応じた。』
現代の日本人は、そう思ってきました(思わされてきた)。しかし、実際はそうではありません。
そんな「ペリー恫喝外交伝説」はマッカーサーによって植え付けられたのです。
アメリカは日本と戦う運命にあったのだ。」
「巨大なアメリカ、小さな日本」
こんな構図で日本に徹底的に劣等感を植え付けようとしたのです。

調印式には日本とアメリカをはじめとした連合国の代表が出席し、日本を代表して出席したのは、天皇と政府代表の外相・重光葵(まもる)、軍部代表の陸軍参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)が出席しました。
梅津は、二・二六事件ノモンハン事件の時のように今回も、後始末を担当しました。

重光はサインにあたり「奴らのペンなど使えるか。おい!ペンを貸せ。」と、自らの書記官の万年筆を借りたといいます。降伏前は「和平派」であった重光だったが、やはり敗戦のくやしさがあったようです。
日本にとってこれ以上屈辱的なことはありませんでした。

さて、ミズーリ号での降伏文書調印式に立ち会ったマッカーサーはその後、皇居前の第一生命ビルにGHQ本部を移しました。
天皇よりも偉い‘ダグラス様‘の誕生です。
私達は8月15日で戦争そのものが終わり、9月2日のミズーリ号での調印式で大東亜戦争は終わったと思っているが、トルーマンマッカーサーは占領というのは依然といて戦争の継続であり、日本政府がどのようなふるまいをしようともそんなことにかまう必要はなく、マッカーサーの意向に反するような行動は全て潰してしまってよいと考えていました。
ここからGHQによる本格的な日本占領政策がはじめていきます。


ということで、次回は占領軍による日本の民主化政策を見ていくことにしましょう。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
やりなおす戦後史 蔭山克秀=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント  保阪正康=著   PHP
子供たちに知らせなかった 日本の「戦後」 皿木喜久=著 産経新聞出版
嘘だらけの日米近現代史  倉山満=著  扶桑社新書124
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社

【どう違う?】ヒロシマとナガサキ

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【どう違う?】ヒロシマナガサキ」というお話です。
 今回は太平洋戦争終盤に広島と長崎に投下された原爆について、その違いを見ていきたいと思います。
 まず、原爆とは、核兵器のひとつであり、核兵器とは、核分裂の連鎖反応によって放出される膨大なエネルギーを利用して、爆風や熱放射などの作用を破壊に用いるもので、非人道的な兵器とされています。

 広島・長崎への原爆投下は、人類史上、唯一の核兵器による‘大虐殺‘ですが、広島と長崎にはそれぞれ異なった原爆が落ちました。以下の表はその違いをまとめたものです。

ヒロシマ ナガサキ
コードネーム リトルボーイ ファットマン
全長 約3m 約3.25m
重さ 約4トン 約4.5トン
直径 約0.7m 約1.25m
主体 ウラン235 プルトニウム239
爆発威力(TNT 換算) 1万5千トン 2万1千トン
爆撃機 エノラ・ゲイ ボックス・カー
投下日時 1945年8月6日 1945年8月9日
同市の人口 約35万人 約24万人
死者数 約14万人 約7万4000人

 御覧のとおり、広島には「ウラン235型」、長崎には「プルトニウム型」と異なる原爆が落とされました。
 アメリカは原爆の人体に対する影響を実験したいために2つの異なる原爆をそれぞれ落としたのです。
 原爆を投下しなくても日本が降伏すると知りながら、アメリカは実験にために無辜の市民を狙って大量残虐を実行したのです。
 広島・長崎が狙われた理由は、軍事施設の有無ではなく、地形と当日の天気が実験に適していただけに過ぎません。

 広島に投下された原子爆弾リトルボーイと呼ばれ、ウラン235を使った小型なもので火薬爆弾1万5千トンに相当するものでした。ウラン235を二つに分け、爆薬を爆発させた勢いで両方を衝突させ、臨界を生み出す、この臨界から、強力な核分裂が発生する仕組みです。
 一方、長崎に投下された原子爆弾はその容姿からファットマンと呼ばれ、プルトニウム239を使ったもので火薬爆弾2万1千トンに相当するものでした。プルトニウムを球状に構築し、爆発で圧縮させて臨界を生む仕組みになっていました。長崎のファットマンは広島のリトルボーイよりも1.5倍の威力がありました。しかし、長崎の方が被害が少ないのは、長崎市は山に囲まれた地形で、山によって熱線や爆風が遮られたためとされています。
当初、アメリカは陸軍造兵廠や工場が立ち並ぶ福岡県の小倉に投下する予定でした。しかし、当日の小倉市内の上空が厚い雲で覆われており、目視による投下が不可能と判断した「ボックスカー」は急遽、長崎に投下したのです。

 1945(昭和20)年8月6日、広島市は晴れ渡り、夏の暑い1日が始まっていました。中国地方最大の都市である広島市は、意外にも、まだ空襲を受けていませんでした。
 この日の広島は午前7時9分に出た警戒警報が解除されて、防空壕から出てき人々が、通勤や通学にとりかかり、町は再び動き出しつつありました。
そこへ飛来する1機のB-29爆撃機
 これを単なる偵察機だと考えた広島市は特に警報を出すこともありませんでした。
 しかし、同機は広島市内へ侵入し、産業奨励館(現・原爆ドーム)のほぼ真上に来た時、大型爆弾を1個投下した。次の瞬間、空中に強烈な閃光がほとばしり、凄まじい衝撃と高熱が市街を覆いました。
 午前8時15分、人類初となる核兵器が使用されたのです。
 広島市に投下された原爆はリトルボーイと呼ばれるもので、当日午前6時8分にマリアナ諸島テニアンから発進したB-29爆撃機エノラ・ゲイ」号から投下されたものでした。
エノラ・ゲイの名前の由来は、搭乗員のポール・ティベッツ大佐の母親の名前からきています。)
リトルボーイは火薬爆弾(TNT換算)にして1万5千トンに相当し、その破壊力が広島市の上空で炸裂。凄まじい爆発と発生した大火災で、多くの人々の命が瞬時に奪われました。
 爆心地から半径2キロ以内が焼失し、人々は影を壁などに焼き込んで形跡もなくなった人もいました。市内中心部は重傷を負って助けを求める人々で溢れかえり、あたりには黒焦げの死体が散乱。生き延びた人々も、苦しみながら息絶えていきました。
「イタイ・・・・アツイ・・・・」
「ミズ・・・・ミズヲクダサイ・・・・」
「シニタクナイ、シニタクナイ・・・」

 築城から350年以上を経た歴史溢れる広島城も倒壊しました。
 さらには家族の消息を尋ねて捜し歩いた人々が市内を彷徨ううちに放射能を取り込み、入市被爆者となってしまいました。

 広島市は市政も軍も機能が麻痺し、完全に潰滅し、文字とおり焦土と化しました。
 広島の原爆による被害は、現在でも正確な数字はつかめていません。当時の広島市の人口が35万人であったのに対し、1945年暮れまでに14万人がなくなったとされています。

 その3日後の8月9日午前2時50分、やはりマリアナ諸島テニアン島を1機のB-29爆撃が離陸しました。その名はB-29爆撃機「ボックス・カー」号であり、ファットマンと名付けられたプルトニウム爆弾を抱えていました。
(ボックス・カーの名前の由来は、本来操縦するはずだったパイロットのフレデリック・ボックからきています。)
 当初、攻撃予定日は8月11日でしたが、10日以降、天候が崩れるとの予報が出たため、2日繰り上げられました。
 そして午前11時2分、人類史上2発目の核兵器長崎市松山町上空に投下され、炸裂した。アメリカ軍は広島の原爆から間髪入れずに2発目の原爆を長崎に投下したのです。
 爆心地付近は秒速360mの爆風が吹き荒れ、半径1キロ以内にいた人や動物はほぼ即死。当時の長崎市の人口約24万人のうち、7万4000人が死亡。その後も犠牲者は増え続け、現在は12万人超とされています。

 両市の潰滅は政府や軍上層部に衝撃をもたらしました。
 大都市がたった1機のB-29からの1発の爆弾で潰滅的打撃を受けたのですから当然です。これはそれまでの空襲の常識を根底から覆されたもので、全く防ぎようもなく、政府も軍上層部もただ困惑するだけでした。

 非戦闘員である女性や子供までも無差別に虐殺した非人道兵器・原爆。しかし、当時のアメリカ大統領のハリー・トルーマンは、「原爆投下は戦争終結を早め、米兵のみならず、多くの日本人の命も救うことが出来た歴史的最高の出来事であった」と主張しました。
 一国の大統領の発言とは思えません。
 また、8月9日の長崎への原爆投下に際しては「ゲダモノと接するときは、ケダモノとして扱わなければならない」と日本人に対する蔑視と嫌悪をうかがわせる発言もしています。
 そこには原爆投下に対する謝罪はおろか、後悔すらも感じられない。
 この頃の日本には、もはや戦う力も気力も失っており、講和路線に傾きかけていました。
 それに「ダメ押し」の無差別大量虐殺かつ非人道兵器による爆撃がされたのです。
 戦争を終結させることが目的ならば、2度目の長崎投下は必要なかったのではないか。これなら世界に先駆けて開発された原爆の威力を試す実験だったと取られても、仕方がないでしょう。
 原爆投下とは、理性と失ったアメリカの暴走行為なのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著       アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則     太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争  半藤一利=著       幻冬社
日本の戦争解剖図艦        拳骨拓史=著       X-Knowledge
日米の教科書 当時の新聞で比べる 太平洋戦争        辰巳出版
太平洋戦争 通説のウソ      大日本帝国の謎検証委員会=編著  彩図社
子供たちに伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著      産経新聞出版