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【どう違う?】「戦争」と「事変」

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【どう違う?】「戦争」と「事変」」というお話です。
戦後の日本では、1931年の満州事変から1945年の太平洋戦争終結まで、「15年戦争」と呼んだりします。
すると、ある疑問が出てきます。
「事変」と「戦争」はどう違うのでしょうか。
よく、「事変」とは「戦争の前段階」であったり、戦争ほど大規模ではない「ミニ戦争」のような認識があるようですが、戦争と事変とではその形式が全く異なります。
以下、戦争と事変の違いを表にしました。

戦争 事変
宣戦布告で始まる 宣戦布告を伴わない
講和発効で終了 終了の当てがない
けじめがつけやすい 泥沼化しやすい
他国は中立を守る 中立国は存在しない
戦闘員同士の戦い ゲリラ隊も参戦する

 まず、「戦争」とは、宣戦布告で始まり講和発効で終了する国家間の状態のことを指します。
 他方、「事変」とは、宣戦布告を伴わず終了する当てもない国家間の状態のことを言います。
 つまり、「戦争」とは、戦時と平時の区別がつき、講和をもって終戦とするけじめのつけやすい戦闘であるのに対し、「事変」とは、戦時と平時の区別がつかず、いつ始まって、いつ終了するのかという終戦の目途がつかない泥沼化しやすい戦闘になります。

 次に、「戦争」とは戦闘員同士、すなわち正規の軍人同士の衝突なのに対し、「事変」とは戦闘員以外の戦闘員(ゲリラ隊)も参戦することがあるのが大きな特徴です。
 ゲリラ隊とは、正規の軍人ではない民間人が武装して軍事要員として参戦することですが、油断させて不意を打つ便衣兵だったり、手段を選ばずに攻撃してくるテロリストなどが参戦するため、被害が拡大しやすいです。

 そして、「戦争」の場合、他国は中立の立場でなくてはなりません。
 例えばA国とB国が「戦争」をした場合、第三者であるC国は中立を守らなくてはいけません。そのため、どちらの国にも石油や軍事物資を売ることは出来なくなります。
 ところが「事変」となると、第三者であるC国は中立を守らなくても良くなるため、どちらか一方、若しくは両国ともに軍事物資を売ることが出来てしまいます。

 以上、戦争と事変の違いについて理解できたところで、後半記事では満州事変から日中戦争勃発までの流れをストーリー形式で見てみましょう。
昭和初期、日本は泥沼の戦争に引きずり込まれ、破滅の道を歩むことになるわけですが、実はその原因は「戦争」を「事変」として処理したことが原因だったのです。

満州事変とは、事実上の戦争ですが、パリ不戦条約に調印し、戦争放棄を約束していた日本はこれを「戦争」ではなく、「事変」としました。パリ不戦条約は破っていないと弁明したのです。しかし、これが国際連盟脱退という大失態を招いてしまうのでした・・・。

 1931(昭和6)年9月18日夜、奉天(ほうてん)郊外の柳条湖で、満鉄線路爆破事件(柳条湖事件)が起きると、関東軍はこれを中国側の仕業として発表し、ただちに軍事行動を起こしました。
 当時の関東軍は1万を超える程度であったが、満州の支配者である張学良は、奉天での最初の不意打ちをくらった時には多少の抵抗をしたものの、以降は散発的な抵抗をしただけでした。
 したがって、関東軍奉天長春など南満州の主要都市を次々に占領することが出来ました。

 こうした関東軍の一連の軍事行動を聞いた第二次若槻礼次郎内閣は、すぐさま不拡大方針を声明するも、関東軍はこれを無視し、次々と軍事行動を拡大させ、9月21日には、吉林を占領しました。
 中国側は、こうした関東軍の軍事行動を「侵略行為」として国際連盟に提訴しました。張学良は日本が軍事行動を起こせば、国際問題となるのが、避けられず、戦線は拡大するはずがないと考えて無抵抗主義に徹したのです。
 日本側とすれば、1928年にパリ不戦条約に調印しているてまえ、関東軍の軍事行動を「戦争」とするわけにはいかず、「事変」として処理し、弁明しました。

「ただちに、事態の収拾に尽力致します。」

 幣原喜重郎外務大臣は連盟理事会に事変の不拡大方針を宣言しました。
 国際連盟理事会は、欧米諸国と協調外交を展開する幣原を信用しました。

 そんな中、関東軍は同1931年10月8日、新たに錦州を空襲しました。関東軍は日本政府の制止や国際世論を振り切って、名目だけの出兵理由をつくりあげて、全満州の占領に突き進んだのです。
 幣原の協調外交は関東軍によって葬られたのです。
 関東軍の暴走はその後も止まらず、翌1932年2月までにチチハルハルビンなど満州各州を制圧しました。

「日本は、満州はおろか、中国全土を占領しようと企んでいるのではないか。」
 連盟理事会は初め、この「事変」をごく局地的なものとして楽観的に見ていました。しかし、事変不拡大という日本政府の約束が実行されないため、しだいに日本に対する不信感を強めていきました。
 中国の主権や領土に関しては、1922年2月に開かれたワシントン会議アメリカやイギリス、日本を含めた世界9ヵ国が中国における門戸開放・商工業の機会均等を互いに約束する9ヵ国条約が結ばれています。
 そのため、日本が抜け駆け的に中国の権益を独占することは条約違反になってしまいます。

 そこで、国際連盟は1932年3月、満州問題調査のためにイギリスのリットンを代表とするリットン調査団満州や日本に派遣しました。
 しかし、その翌日、関東軍満州国の建国宣言をしました。元首は天津からひそかに連れ出した清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)で、溥儀は執政として就任した翌日、関東軍司令官宛の書簡に署名させられました。
 同1932年10月、リットン調査団は報告書を発表しました。
 そこには、「満州国」は自発的な民族独立運動の結果、成立したもとする日本の主張を否定したものの、日本の権益は保障すべきと一定の配慮が示されたものでした。
 当時、国際連盟の日本政府代表だった松岡洋右(まつおかようすけ)は1932年12月4日、リットンの妥協案を受け入れて、中国にも多少譲歩することで、問題の幕引きを図るべきとしていました。
 
 そんな時、とんでもない事件が新たに発生してしまいました。

 1933年2月、関東軍熱河省にも軍事行動を拡大してしまったのです(熱河作戦)。
これは執政の溥儀が「熱河はもともと満州国の一部だからここも我が国としてほしい」と関東軍に申し出ていたために起こった事件でした。
 国際連盟は、まだ満州事変や満州国の問題が完全に処理されていないにも関わらず、関東軍が新たに軍事行動を始めたことは、国際連盟に対する侮辱と挑戦であると理解しました。

 同月に開かれた国際連盟総理事会では、満州における日本軍の撤退を勧告した決議案が、42対1(反対は日本だけ)で可決されてしまいました。
 これに失望した全権大使の松岡はただちに退場し、3月12日、日本政府は国際連盟を脱退することを通告しました。
 結局、満州事変は1933年5月の塘沽(たんくー)停戦協定で一応は収束しますが、すでに日本は国際的孤立を深める立場にまで陥ってしまいました。

 これは満州における日本軍の一連の軍事行動を「満州事変」として処理してしまったがために、終了の当てがなく、戦線を拡大させてしまったことが原因であったと考えられます。

 戦争を事変として処理してしまったがために、戦線を泥沼化させてしまったもう一つの例として日中戦争が挙げられます。

 1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件をきっかけに日中は激しい戦闘を繰り広げていきました。
 しかし、第一次近衛文麿内閣はそうした日中間の軍事衝突を当初、「北支事変」と呼んでいました。

 近衛は考えました。
「もし、このまま宣戦布告して正式な戦争状態となれば、アメリカなどの中立国から兵器や軍需物資を売ってもらえなくなる。」
正式な「戦争」になった場合、他国は中立を守らなくてはなりません。したがって、どちらかに、若しくは両国に武器や石油を輸出してはいけないのです。

さらに、近衛は続けました。
「まぁ、統制のとれていない国民軍など、我々の敵ではない。少し威嚇すれ奴らはすぐに屈服するだろう。」
近衛はほんの数か月間の限定的な武力行使で事態は収拾すると考えていました。
こうして宣戦布告を見送った近衛内閣は、翌8月15日、次のような声明を発表しました。
「わが国としては、もはや我慢の限界に達し、支那(中国)軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促すため、今や断固とした措置をとることをやむを得ない状況にいたった。」
暴戻・・・・残虐非道な行いという意味。)
(膺懲・・・・懲らしめるという意味。)

 つづく。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 本宮貴大でした。それでは。

参考文献
もういちど読む 山川日本近代史 鳴海靖=著 山川出版社
「昭和」を変えた大事件  太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
教科書よりやさしい日本史    石川晶康=著  旺文社
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

【トラウトマン工作】なぜ日本は日中戦争を交渉によって解決できなかったのか【近衛文麿】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【トラウトマン工作】なぜ日本は日中戦争を交渉によって解決できなかったのか【近衛文麿】」というお話です。

 

 日中戦争といえば、1937年に勃発した泥沼化した過酷な戦争で、当時の日本の国力を大きく疲弊させてしまった‘悪名高い‘戦争として知られています。

 結局、日中戦争は1945年の終戦まで続いてしまいした。

 なぜ日中両国は戦争を解決できず、愚かしくも8年間も続けてしまったのでしょうか。
 もちろん、当時の日本も中国もこれ以上戦争を続けたいなんて思っていませんでした。
 その証拠に、後にトラウトマン工作と呼ばれる和平交渉の機会を作っています。日本も中国も何とか和平交渉にこぎつけ、事態を収拾させようとしていたのです。
ということで、今回記事では、なぜ日本は日中戦争を交渉によって解決できなかったのかについて見ていきたいと思います。

 

 膠着状態だった上海での一戦も、ようやく日本軍の勝利で終わった。
 しかし、その代償は非常に大きいものだった。
 日本は戦死者だけでも1万人を超えてしまい、膨らむ一方の戦費に国力を疲弊させていました。

 支那との戦線拡大は今後も続くと予想される。
 敗走した国民政府は依然として日本との戦争を続ける姿勢を見せているからだ。
 中国との戦争をこのまま2年、3年と続けてしまうのか。
 それは国益上、好ましくない。
そういう意見は近衛内閣だけでなく、陸軍参謀本部でもありました。
「現場の悲鳴が聞こえてくる。」
蒋介石は直接的に我が国とは交渉をしないだろう。両国の関係はそれくらい悪化している。」
近衛内閣は対応を迫れました。
こうなったら、日中双方にかわって和平交渉(仲介)をしてくれる大国を探さなくてはいけません。

 

 イギリスはどうか。
 イギリスは日中戦争を何とか回避させたいと思っていました。
 すでにイギリスは中国に莫大な投資をしているし、その工業基盤が日中の戦争によって破壊しつくされてしまってはたまったものではありません。
 首相のネヴィル・チェンバレンは、日本側に何度も申し出ています。
「我が国は仲介役をする用意が出来ている。日英同盟復活・・・・まではいかなくても不可侵条約だけでも結んでおくべくではないか。」
 しかし、日本陸軍は、中国における圧倒的な権益を持つイギリスは中国関連の問題において、中立ではなく「中国寄り」だとみなしており、不信感を募らせていました。
 それに、日英同盟を破棄された過去もあるため、あまり信用できない。
こうした陸軍の意見に押された近衛内閣もイギリスに和平の仲介を頼むことはしませんでした。

 

 アメリカはどうか。
 明治時代後半までは日本とアメリカは友好関係にありました。
 しかし、そんなアメリカがここにきて中国側に寝返った。もはや確信犯のレベル。
 蒋介石が中々降伏しないのも、コイツが裏で蒋援物資を送っているから。
 アメリカの策略はこうです。
 蒋介石率いる国民党に物的支援をすることで恩を売り、傀儡化させる。そして日本と戦争をさせることで国力を疲弊させ、‘そのとき‘が来たら、中国権益をごっそりと入手してしまおうというのです。

 建前では中立国の立場をとっていても、本心では日中の衝突に大喜びだ。
かといって、日本としては石油が欲しいので、アメリカとの関係は悪化させたくはない。
 一方のアメリカも1920年代の恐慌の後遺症からまだ立ち直っておらず、「お得意さん」である日本との貿易を続けたいと思っていました。
 日本とアメリカは互いに中国権益を争うライバルであると同時に、経済的には相互に依存し合うパートナーだったのです。
 いずれにしても、仲介を頼めるような奴じゃない。

 

 北の大国・ソ連はどうか。
 こいつはもう論外だ。日本にとっては明治以来、一番の仮想敵国で米英以上に厄介な存在だ。
 スターリンは領土を拡大するためなら手段を選ばない。チャンスとなれば、見境なく侵攻してくる。
 日中戦争によって日本が国力を疲弊させていることを知れば、すぐにでも攻めてくるだろう。
 一方で、スターリン満州国が誕生してからの日本軍への警戒を一段と強めていました。満州からシベリアや沿海州へと攻め込まれるのを恐れていたのです。
 したがって、ソ連も日本と中国が戦争してくれるのを喜んでおり、それを発展させれば、日米開戦だってありうる。
「海の向こうから高笑いが聞こえてくる」とはこのことです。

 この後、スターリンは日本の疲弊をチャンスとみて、満州の国境を挑発します。それがきっかけとなり、ソ連は日本と軍事衝突をしました。(ノモンハン事件

 

 こうした状況の中、近衛政権が仲介役として選んだのは、ドイツでした。
 ナチスドイツとは1936年に防共協定を締結して友好を深めています。
 ドイツも武器の輸出や鉱山資源の購入で中国と交流している。
 支那事変の終結には積極的に動いてくれると予想される。

 ドイツ大使のトラウトマンは日中双方に和平交渉を働いていました。

 ドイツとしても日中両国に恩を売ることで、ドイツの国際的心証を良くしようという目論見と、ドイツにとっても仮想敵国であるソ連を日本が東側から牽制してくれる存在として期待していました。
 1937年11月2日、近衛は中国側に提示する「和平の条件」をドイツの駐日大使ディルクセンに伝えました。
近衛の提示した「和平の条件」は以下の通りです。
華北の行政権は南京(国民)政府に返す」
要するにこれは、満州事変以降、日本が獲得した権益を全て放棄するということで、日本側としてはこれ以上ないほど寛大な譲歩でした。近衛としては何としても日中戦争を収拾させたかったのでしょう。

この内容はディルクセンからすぐさま駐華大使トラウトマンに伝えられ、11月6日、トラウトマンは蒋介石と面会し、日本の条件を伝えました。
しかし、蒋介石は言いました。
「我が国と日本は激しい戦争状態にあるのだぞ。そんな状況下で調停交渉など成功するはずがない。まずは停戦が先決だろう。」
蒋介石はまず、停戦を求めました。
しかし、上海を陥落させた日本軍は進撃をやめず、南京に向かってしまっている。
これに対し、蒋介石も徹底抗戦の意思を固めている。
このままでは交渉は頓挫してしまう。
そんな時、今度は蒋介石の側から「和平の条件」が提示されました。
蒋介石の提示した「和平の条件」は以下の通りです。
「もし、日本側が中国の領土保全を約束するなら、先の条件で和平を受け入れても良い。」
これが日中戦争を交渉で解決できたかもしれない最大のチャンスでした。トラウトマンはすぐに、この内容をディルクセンに伝え、日本政府の決断を仰ぎました。
しかし、事態は思わぬ展開となってしまいました。
日本軍が1937年12月22日付で首都・南京を陥落させたという知らせが入ったのだ。
「情勢は我が国に有利になった。」
近衛内閣はすっかり強気になり、新たな和平案をディルクセンに伝えました。
それは「華北の行政権を南京政府に返す」だった前案から「華北を特殊地域化する」と修正されたものでした。
「特殊地域化」とは、華北満州国のような傀儡国家を新たにつくることですが、つまり前案の「返還」とは180度違う強硬姿勢でした。
「首都である南京を陥落させたのだから、蒋介石もこの条件を受け入れるであろう」
近衛はそんな期待を持っていました。
近衛はこの条件に対する回答期限を翌1938年1月15日としました。
しかし、蒋介石はこの和平案で妥協するはずもなく、明確な回答もしませんでした。
近衛内閣はこれを引き延ばし工作と判断し、翌1938年1月16日、近衛の名で声明が発表されました。
「帝国政府は南京攻略後、中国国民政府に反省の最後の機会を与えたが、みだりに抗戦を策している」
そのうえで、こう続けました。
「爾後、国民政府を対手(相手)とせず」
この捨てセリフのような声明は第一次近衛声明と言われており、近衛内閣は今後、国民政府との交渉を一切打ち切ると決断したのです。
この声明を決めた15日の政府と大本営の連絡会議では、大本営側の陸軍参謀本部は交渉の継続を主張していました。
しかし、近衛をはじめ政府側がそれを断交で押し切ったのでした。
これによりトラウトマン工作は水泡となり、近衛は自ら日中戦争終結の機会を絶ってしまうことになりました。

なぜ、日本は日中戦争を交渉で解決することが出来なかったのでしょうか。
日本の外交能力の低さは今も昔も変わっていませんが、その原因として考えられるのは、自国と相手国の関係性を客観的・相対的に分析する力が欠如しており、日本中心の主観的・絶対的な視点で他国の状況を見ていることにあります。
「かつての日本は諸外国とは比べ物にならないくらい優れた国だったのだ」
江戸時代に本居宣長によって大成された国学によって、そんな認識が日本人のあいだに広がりました。
この国学が水戸学と合体して尊王攘夷という思想となり、明治維新大義名分となりました。それが昭和時代になって国体明徴運動を経て、「日本は神の国である」という極端な自国中心主義的な考えになってしまいました。
こうした態度は特に中国に対して顕著です。
先進諸国である欧米に対しては幾分、譲歩する構えを見せているものの、「文明未発達」で「無法地帯」である当時の中国に対してはやけに強気な態度で接します。
日清戦争以来、日本は中国をどこか見下すような態度をとっているのがうかがえます。
これは現代の日本人にも言えるでしょう。言われてみれば、私達は中国人をどこか見下しているようなところがありませんか。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

【日中戦争4】南京大虐殺は本当にあったのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日中戦争4】南京大虐殺は本当にあったのか」というお話です。

 

 日中戦争で日本軍は南京を攻略しますが、この際、捕虜や民間人を多数虐殺したといわれています。これがいわゆる南京大虐殺です。

 南京虐殺は、現在も論争の的になっているのはみなさんもご存知だと思います。

 しかし、虐殺された中国人の数がはっきりしておらず、軍人は殺しても、民間人は殺していないなど、様々な記録や証言が飛び交い、その経過について不明な点が多いです。

 数千人が殺害されたとの証言もあれば、軍民合わせて30万人が殺害されたとの主張まであります。

 さらに近年、「南京大虐殺は存在しなかった」という主張をする人も現れるようになりました。

 実際、南京大虐殺は本当にあったのでしょうか。

 ということで、今回の前半記事では、「どのような経緯で南京における虐殺が発生したのか」について。後半記事では「南京大虐殺は本当にあったのか」について見ていきたいと思います。

 

 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋において、日本軍と蒋介石率いる国民軍が軍事衝突を起こしました。時の近衛文麿内閣は、この事件を機に支那事変として、大軍を中国大陸へ投入しました。

 いわゆる日中戦争の勃発です。

 1937(昭和12)年秋、日本軍は2つの方面軍に編成されるようになりました。

 1つは北京・天津を占領した支那駐屯軍であり、彼らは北支那方面軍として満州から南下を始めました。

 もう1つは上海を制圧するべく新たに派遣された海軍陸戦隊で、さらに攻撃に加わった第10軍とで中支那方面軍として北上を始めました。

 日本軍は二方面から中国領内への進撃したのです。

「せっかく上海を制圧したんだ。この勢いのまま首都南京を押さえてしまおう。」

 上海を制圧したことに自信をつけた中支那方面軍は息つく間もなく南京攻略を提案しました。

 司令官の松井石根は当初、南京攻略には否定的で兵の疲労や食糧の補給問題もあり、時期尚早としていました。

 東京の陸軍参謀本部も、このあたりで国民政府との交渉に持ち込むべきと考えており、いたずらに戦線を拡大してはいけないと考えていました。

 しかし、軍中央と現場、さらに上官と末端兵士の意思疎通が十分にできていないことが災いし、上海制圧からわずか1週間後の11月19日、第10軍が勝手に南京に向けて進軍してしまいました。

参謀本部は何を弱腰になっている。敵がバラバラになった今こそ、南京を落とす絶好のチャンスではないか」

 松井は当初、彼らの動きを抑えようとするも、すさまじいスピードで進軍しており、もはや止めることは出来ませんでした。

 南京攻略は、満州事変以来の命令系統の乱れによって発生したものだったのです。

 

 結局、松井は陸軍参謀本部に南京攻略の許可を求め、参謀本部もこれを追認しました。

「首都を落とせば国民政府も講和を申し入れてくれるだろう」

 現場の勢いにおされる参謀本部もそんな期待を持っていました。

 そして同1937(昭和12)年12月1日には天皇の命令である大命が下り、南京攻略は承認されました。

 この頃、中央では天皇直属で陸海軍統帥機関でもある大本営が遂に設置されました。これは日清戦争日露戦争に続く3度目のことで、日本はいよいよ戦時体制下に突入していくことになりました。

 松井司令官に指揮された中支那方面軍は、12月8日に南京を包囲し、2日後に総攻撃を実施しました。

 南京は春秋から続く城塞都市で、中国の首都であることからも、攻略には困難が予想されました。また、中国軍は兵10万前後を、南京市内と周辺に配置していました。

 しかし、この時、蒋介石ら政府機関は南京から脱出しており、また中国軍も、先の上海戦で消耗しているうえに、統制のとれない寄せ集めの軍団なので、南京を守り抜く力がありませんでした。

 そのため、さしたる抵抗もなく、1937年12月中旬、日本軍は南京を制圧しました。

 日本軍も最終的に数千の死傷者を出したが、13日、城内に日の丸を掲げました。

 この後、日本軍は敗残兵やゲリラの征討に踏み切りました。多数の中国兵士を捕虜にしたが、そのまま殺害したと伝えられている。この凶行は一般市民にも及んだとされ、大量の殺害、暴行が報告されました。

 南京市街に入った日本軍は、市民に対し、略奪・暴行のかぎりを尽くし、手当たり次第に人々を殺害したと伝えられています。

 捕虜への非人道的な扱いや民間人に危害を加えることは、19世紀に結ばれたジュネーブ条約、続くハーグ陸戦条約という国際法により禁じられていました。しかし、日本はハーグ陸戦条約には調印しておらず、兵士たちも捕虜の扱い方について、平時からきちんとした指導や通達を受けていなかった。世界各国は日本の戦争行為を非難するようになります。そして、すでに国際連盟を脱退した日本は、抗弁する場を失っていました。

 当時、南京にいて生還出来た欧米ジャーナリストがこれを南京大虐殺として報じるようになりました。これが戦後、戦争犯罪者を裁く東京裁判南京事件に関する証人が多く出廷し、日本軍の蛮行を具体的に証言されました。その結果、松井石根A級戦犯として絞首刑となりました。

 日本人が南京大虐殺のことを初めて知ったのは、この東京裁判のときでした。戦前、皇軍天皇の軍)は正義の軍隊だと信じて疑わなかった国民はこうした蛮行に衝撃を覚えました。


 東京裁判で提出された記録によれば、南京陥落後の数日間の間に1万2000人の民間人が無差別に殺され、その後1カ月間に捕虜の2万人を含め、合計20万人以上が惨殺されたとされています。
 また、中国人女性2万人が日本兵によって強姦されたという。

 なお中国側は今現在、南京では30万人が殺害されたと主張しています。

 ところが近年、「南京大虐殺は存在しなかった」という主張をする人が現れるようになりました。

 どういうことなのでしょうか。

 問題の争点は殺された数と、殺された人々の身分です。

 大虐殺というが、中国が主張する30万人や東京裁判での20万人という膨大な数ではなく、多くてもせいぜい数万から数千程度であり、これは他の戦争でもあるような犠牲者数に過ぎないということです。

 あるいは、南京城内に限ってみると、数千という単位の大虐殺は行われていないとするものもある。

 続いて、殺された人々の身分や法や根拠に虐殺ではないとする論もある。

 例えば、戦闘員は殺しても虐殺とはいわない。さらに中国軍には民間人に紛れて戦うゲリラ隊(便衣兵)が多く参戦しており、これを区別することなど不可能だったので、避難民や市民にも手を加えてしまったのは、仕方がないことであり、虐殺ではないとする考え方である。

 それに数十万人が殺されたというのに、南京大虐殺のことに関して記した資料が日本側にはほとんど見つかっていない。軍中央が命令したという事実も見つかっていない。

 結局、南京における日本軍の略奪・暴行・虐殺行為はあったのでしょうか。

 結論から言うと、そういう行為はあったと考えてよいでしょう。

 当初、日本軍は上海で軍事行動は行い、その後に南京に向かう予定はありませんでした。

 ただでさえ物資の調達が滞りがちな日本においては、食糧は基本的に現地調達です。そのため、家や村を襲撃して食糧を調達していたことはほぼ間違いない。それに上海から南京までは300キロもある。

 満州国の建国以来、日本はその防衛のために兵員を大増員させています。そのため南京攻略の際には、大した訓練も受けていない統制の取れていない質の低い兵士も相対的に多くなった。

 大軍勢でかつ、質の低い兵士が多くなると、どうなるか。上官の命令が末端まで届きにくく、勝手な行動をとる人が多くなる。

 南京事件があったことは事実でも、どう考えてもおかしいと思うのは、その犠牲者の数です。

 数の問題ではないと言われれば、それまでですが、30万人はどう考えても誇張し過ぎている。

 そもそも南京の人口が20万人程度だし、日本軍は、大規模な空爆はおろか、機関銃すらも十分に装備していなかった。その状況下でわずか1カ月の間に30万人とはちょっと多すぎるのではないか。

 あの「広島の原爆」でさえ、犠牲者は20万人なのです。

 東京裁判の時は、20万人だったのが、広島での犠牲者が20万人という結果が出た途端、まるで後出しジャンケンのように30万人という数字をだしてきている事情もある。

 皆さんはどうお考えでしょうか。

 

 では、我々日本人は、戦争においては一方的な加害者だったのか。

 もちろん、そんなことはありません。東京大空襲では一晩で10万人が亡くなったのです。これは紛れもない事実です。

 フランクリン・ルーズベルトがどんな人か知っていますか。

 彼はヒトラーにも負けず劣らずの人種差別主義者で、日本人を人間とはみなしていなかった。トップがそうなのだからアメリカ国民もまたしかり。
 東京大空襲や広島の原爆は、東京大虐殺広島大虐殺という言い方も出来るのではないでしょうか。

 日本人も謝るばかりではなく、もっと訴えた方が良いのでは。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社

【日中戦争3】なぜ当時は支那事変と呼ばれたのか【近衛文麿】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日中戦争3】なぜ当時は支那事変と呼ばれたのか【近衛文麿】」というお話です。

 1938年に始まり、1945年の終戦まで続いた日本と中国の戦闘のことを私達は「日中戦争」と呼ばれています。
 実際、学校の授業やテストでは「日中戦争」と解答しなければ「間違い」とされてしまいます。

 しかし、当時は「日中戦争」ではなく、「北支事変」や「支那事変」と呼ばれていました。
 それが戦後に編纂された日本史の中で日中戦争とよばれるようになったのです。

 では、本題に入る前に、「戦争」と「事変」の違いについて確認しておきましょう。

 よく、「事変」とは「戦争」の前段階であったり、戦争ほど大規模ではない「ミニ戦争」のような認識があるようですが、戦争と事変とでは全く異なります。
 以下、戦争と事変の違いを表にしました。

戦争 事変
宣戦布告で始まる 宣戦布告を伴わない
講和発効で終戦 終戦の当てがない
けじめがつけやすい 泥沼化しやすい
戦闘員同士の戦い ゲリラ隊も参戦
他国は中立を守る 中立国は存在しない

 まず、「戦争」とは、宣戦布告で始まり講和発効で終了する国家間の状態のことを指します。
 他方、「事変」とは、宣戦布告を伴わず終了する当てもない国家間の状態のことを言います。

 つまり、「戦争」とは、戦時と平時の区別がつき、講和をもって終戦とするけじめのつけやすい戦闘であるのに対し、「事変」とは、戦時と平時の区別がつかず、いつ始まって、いつ終了するのかという終戦の目途がつかない泥沼化しやすい戦闘になります。

 次に、「戦争」とは戦闘員同士、すなわち正規の軍人同士の衝突なのに対し、「事変」とは戦闘員以外の戦闘員(ゲリラ隊)も参戦することがあるのが大きな特徴です。
 ゲリラ隊とは、正規の軍人ではない民間人が武装して軍事要員として参戦することですが、油断させて不意を打つ便衣兵だったり、手段を選ばずに攻撃してくるテロリストなどが参戦するため、被害が拡大しやすいです。

 そして、「戦争」の場合、他国は中立の立場でなくてはなりません。
 例えばA国とB国が「戦争」をした場合、第三者であるC国は中立を守らなくてはいけません。そのため、どちらの国にも石油などの軍事物資を売ることは出来なくなります。
 ところが「事変」となると、第三者であるC国は中立を守らなくても良くなるため、どちらか一方、若しくは両国にも軍事物資を売ることが出来てしまいます。

 以上、戦争と事変の違いについて解説しましたが、これらの背景知識を踏まえて、日中戦争の拡大を見ていきながら、なぜ当時は支那事変とよばれるにいたったのかについて見ていきたいとおもいます。

 盧溝橋事件が起きた1937(昭和12)年7月当時、北京市街の東にある通州という町に、約400人の日本人が住んでいました。
 通州には日本と中国との緩衝地帯として冀東防共自治政府がつくられていました。そこは親日派の殷汝耕(いんじょこう)に組織させた政権であり、日本は約100人の守備隊を、国民党は第29軍を、さらに冀東防共政府の保安隊3千人が駐留していました。

 ところが、盧溝橋事件から20日余り過ぎた7月28日、冀東防共政権の地域で事件が起きました。
 それまで日本軍に従っていた保安隊と呼ばれる中国人部隊が反旗を翻し、北京近くにいた日本人居留民を襲撃したのです。
 彼らは略奪や強姦を行ったうえ、子供を含む200人以上の日本人(うち約半数は朝鮮人)を残虐な方法で虐殺しました。(通州事件

 日本人は安心したところを「身内」である防共政府の保安隊に襲われたのです。彼らは盧溝橋事件以降、反日姿勢を強める蒋介石の動きを見て、国民党に内応し、攻撃のチャンスを狙っていたようですが、日本人からすれば、裏切り以外の何ものでもありません。
実は、この冀東防共地帯とは日本側が密輸と薬密造の拠点としており、不満を募らせていた保安隊が爆発してしまったからとされています。

この通州での事件は日本本土の新聞で大々的に報じられました。
「鬼畜も及ばぬ残虐」
「百吸血に狂う銃殺傷」
こうした見出しと共に大きく報じられ、日本人の間では中国人に対する敵意と、中国で軍事作戦を行う日本部隊に対する国民的な支持が、さらに高まっていきました。

 こうした背景の中、帝国陸軍は中国側に総攻撃を開始しました。それは北京や天津付近を中心に布陣していた宋哲元ら国民軍を南方に駆逐するためのもので、総攻撃を行った陸軍の支那駐屯兵は増強されて3万人まで達していました。
 この掃討作戦は、日本側の一方的な勝利と共に進展し、7月29日には北京(北平)と天津が完全に日本の支配下にはいりました。
中国軍も抵抗しましたが、約5000人の戦死者を出して撤退していきました。現地部隊では「満州の成功再び」と高らかに叫ばれました。

 それから約10日後の8月9日、通州や北京から遠く離れた上海でも、新たな事件が発生してしまいました。まるで華北での日中衝突に触発されるかのように。
 帝国海軍の大山勇夫中尉が乗る乗用車が中保安隊に襲撃され、運転手ともども殺される事件でした。大山中尉は海軍のキャリア軍人であったため、米内光政海相は大激怒しました。

 すぐさま、日本は中国に謝罪を求めるも、中国は2人が挑発したから応戦したまでだと反論しました。
 こうした中国の対応は火に油を注ぐ結果となりました。

支那の奴らめ、何様のつもりだ。帝国海軍の恐ろしさを思い知らせてくれる。」

 それまで中国戦線は陸軍の問題であり、海軍は無関心でした。しかし、この事件がきっかけで米内海相は、軍令部に出兵要請を下し、8月13日には海軍陸戦隊が上海に上陸し、日中両軍は衝突しました(第二次上海事変)。

 盧溝橋事件からはじまった日中の衝突は、わずか2カ月の間に北京、天津、そして上海にまで飛び火してしまったのです。

 第二次上海事変のことは、日本本土の新聞各紙によってまたも大々的に報道されました。
 その煽りを受けた国民達は中国との戦争強硬を叫びました。

「もはや全面戦争だ。今すぐ中国に宣戦布告しろ。」

 こうした国民の熱狂を受け、8月14日、近衛内閣は臨時閣議を開いて、中国に宣戦布告するべきかどうか議論をしました。
「世論がこれほど熱狂しているのだ。ここで事態を収束させても国民は納得しないであろう。」

 しかし、戦争となれば しかし、それを「戦争」とするかどうかには躊躇しました。
 近衛内閣は当初、盧溝橋事件以降の一連の日中間との軍事衝突を日本政府は「北支事変」と呼んでいました。
 近衛首相は考えます。
「もし、このまま宣戦布告して正式な戦争状態となれば、アメリカなどの中立国から兵器や軍需物資を売ってもらえなくなる。」
先述とおり、正式な戦争になった場合、他国は中立を守らなくてはなりません。したがって、どちらかに、若しくは両国に武器や石油を輸出してはいけないのです。

 さらに、近衛は続けました。
「まぁ、統制のとれていない国民軍など、我々の敵ではない。少し威嚇すれ奴らはすぐに屈服するだろう。」
 近衛はほんの数か月間の限定的な武力行使で事態は収拾すると考えていました。

 こうして宣戦布告を見送った近衛内閣は、翌8月15日、次のような声明を発表しました。
「わが国としては、もはや我慢の限界に達し、支那(中国)軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し、南京政府の反省を促すため、今や断固とした措置をとることをやむを得ない状況にいたった。」
暴戻・・・・残虐非道な行いという意味。)
(膺懲・・・・懲らしめるという意味。)

 この声明にある「暴戻支那の膺懲」というくだりは、やがて「暴支膺懲」という4文字のスローガンが掲げられ、日本軍の中国に対する武力行使を正当化するために、日本国民の間でも流行語となりました。
 そして9月2日、「北支事変」は「支那事変」と改名され、街中には国債購入を促すポスターが貼られるようになりました。

 現地軍には、この勢いのまま首都・南京も制圧してしまおうという考えが強かった。(南京・・・当時、中華民国は南京を首都に置いていました。)

 しかし、東京の陸軍中央は戦闘地域を上海地域に限定し、その上で南京政府と交渉する予定でした。
 しかし、東京の軍中央と現地軍との意思疎通が十分にできない中、現地軍の第10軍が突然、南京を目指して西に進みはじめてしまいました。

 こうした暴走によって日中の戦火はいよいよ歯止めがかからなくなってしまいした。

 日中戦争とは泥沼化した過酷な戦争でありました。それは近衛首相が「事変」という選択をしてしまったからことが大きな要因ですが、ここでもやはり資源に恵まれない日本の弱点が露呈した結果であることがわかりました。
 当時、国家としての統制がとれていない中華民国を懲らしめ、短期間で終結させることが出来るという楽観的な見通しに囚われていたことも事変として片づけてしまった原因でした。
つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
本宮貴大でした。

参考文献
子供たちに伝えたい 日本の戦争   皿木喜久=著      産経新聞出版
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著      ダイヤモンド社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史  中村達彦=著      アルファポリス
「昭和」を変えた大事件       太平洋戦争研究会=編著 世界文化社 

【日中戦争2】盧溝橋事件はなぜ全面戦争に発展したのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日中戦争2】盧溝橋事件はなぜ全面戦争に発展したのか」というお話です。

 今回は、盧溝橋事件から日本と中国の全面戦争に至るまでの経緯を見ていきながら、その黒幕はアメリカだったことについて詳しく解説していきたいと思います。

 

 盧溝橋とは、北京から南西に約5キロに位置する橋で、永定河(えいていが)とよばれる川に架かっています。

 ヨーロッパではマルコポーロ橋と称されているくらい非常に古い橋です。

 1937(昭和12)年7月7日の七夕の夜、盧溝橋湖畔の一帯で日本軍は夜間演習を行っていました。日本は1894(明治12)年の日清戦争に勝利したことで、日本軍は北京に兵を置くことを認められていたのです。

 一方、中華民国側では国民党の国民革命軍が訓練をしていました。

 

 午後10時40分頃、訓練中の日本軍にむけて小銃弾が数発飛んできたことで事態は大きな騒ぎになります。

 大佐である牟田口廉也は、「敵に撃たれたら撃ち返すのが当然だ」と攻撃を命令したため、翌7月8日に部隊を永定河の堤防に展開する中国軍部隊を攻撃し、日中双方に死傷者を出す本格的な戦闘へと展開していきました。

 小銃弾は明らかに中国軍が駐屯する竜王廟(りゅうおうびょう)付近から射撃されたものでした。

 しかし、「衝突」は小規模なもので、7月11日午後8時の時点で、現地中国軍と日本公使館駐在武官との間で行われ、停戦協定が成立し、盧溝橋事件そのものは、収束しました。

 ところが、この事件を利用しようとする日本政府と陸軍首脳部がいました。

 

 陸軍首脳部は建前上では「不拡大方針」を示しましたが、本心では「面白いことが起きた」としました。

 これを口実に武力をもって新たに中国権益を拡大させようというのです。

 満州国はデフレ不況の打開策として、満州国を建国しました。

「王道楽土の建設」を謳い文句として建国された満州国には新天地で花をさかせようとする移住者が殺到しました。しかし、思ったほど資源がとれませんでした。

 

 前回の柳条湖事件は自作自演だったために、国際社会からの印象が悪く、強い非難を浴びてしまった。

 しかし、今回は最初に攻撃してきたは中国側です。

 これを口実にして、中国に威嚇攻撃をし、新たに中国での権益拡大を図ろうとするのが、陸軍省の意向でした。

 したがって、陸軍省は現地で停戦協定が結ばれたにも関わらず、「この際、3個師団を現地に派兵し、中国を徹底的にたたけ」と主張するようになりました。関東軍参謀長だった東条英機や、参謀本部の作戦課長の武藤章(むとうあきら)らは拡大論を唱えました。

 

 盧溝橋事件が起きた当時の首相は近衛文麿でした。

近衛は貴族院議員で、若くて、ハンサムで、背が高くて、頭良さそうで、まさに「プリンス」にふさわしい容姿で組閣当初は、国民から絶大な期待を受けていました。

 そんな近衛が首相に就いてからわずか1カ月後に、盧溝橋事件が勃発したのです。

 彼は陸軍の意向に逆らうことはせず、7月11日には「国民政府に反省を促すため」として陸軍から提出された動員派兵案に対し、天皇の裁可を得ました。

蒋介石は日本軍の強さをよくわかっているので、ここで一撃を加えて軍事力の差を改めて思い知らせておけば、すぐに屈服して日本の言うことを聞くようになるだろう」

 近衛はそう考えていました。

 近衛内閣は盧溝橋事件を北支事変と名付け、河北への増援部隊を派遣することを決意しました。

 

 当時、無法地帯であった中華民国では、盧溝橋事件の影響も相まって、反日運動が激化しました。

 近衛は当初、そんな中華民国に対する威嚇行為のつもりで、すぐに万事収まると考えていました。

 しかし、結果、日本政府の予想とは正反対の結果となりました。

 

 日本政府は盧溝橋の事件の現地停戦協定を無視する態度に出ましたが、蒋介石もまた同様な態度に出たのです。

 しかし、盧溝橋事件勃発の報に蒋介石は態度を変えました。

 国民政府は停戦協定に盛られた内容を一切承認しないとし、河北省に兵力を集中させ、日本に対し、徹底抗戦することを宣言しました。

 蒋介石は「最後の関頭(せとぎわの意味)演説」を行い、「我々は弱小国であるが、・・・・・最後の関頭に至れば、あらゆる犠牲を払っても徹底抗戦すべきである」と呼びかけました。

 また、日本軍には勝てないとわかっていた宋哲元は日本に屈服することを考えていましたが、蒋介石に説得され、徹底抗戦することを決めました。

 盧溝橋事件が起きる前年、蒋介石西安事件を経て、中国共産党中国国民党との合作を実現させました。

「日本には一切、妥協せず」

 蒋介石は、その姿勢を鮮明にしました。

 こうした状況の中、7月25日、北京と天津の間で日中の軍事衝突が発生したのでした。

 盧溝橋事件が点火した炎は、本格的な戦争へと燃え広がるようになりました。日本側はこの衝突を新たな口実として利用し、駐屯軍をさらに増強、航空部隊の支援と共に、7月28日に中国国民軍に対する総攻撃を開始しました。
それにしても、なぜ蒋介石は宥和政策から一転して対日強硬姿勢に態度を変えたのでしょうか。

アメリカと手を組んだ蒋介石はすっかり強気になり、日本に徹底抗戦することを決意しました。日中戦争とはアメリカの策略によって引き起されました。日米開戦はこの頃からすでに始まっていたのです。

 帝国主義国家にとって中国とは、非常に魅力的な国です。

 資源が豊富なので原料を安く買いあげることが出来るし、自国の製品を売りつける人口もたくさん抱えています。

 そんな中国を自国のマーケットとして取り込むことが出来れば、世界一の経済大国として成り上がることが出来ます。

 

 そんな野望を一番に抱いていたのがアメリカでした。

 中国進出に出遅れたアメリカは、いまだにその権益獲得に意欲的でした。

 1905年、アメリカは南満州鉄道を日本と共同統治することを条件に日露戦争に仲介に入り、ポーツマスで講和会議まで開きました。それにも関わらず、日本はアメリカの経営参加を拒絶しました。

 そんな過去があってか、アメリカは恩知らずの日本が中国での影響力を強めることを快く思っていませんでした。

 また、イギリスが中国権益を独占しているのも面白くなかった。

 当時、アメリカとイギリスは犬猿の仲と言ってよい関係です。

 1920年の国際連盟発足時だって、イギリスとアメリカは散々揉めた結果、アメリカは国際連盟に加盟しないという事態になってしまいました。

 1927年のスイスで行われたジュネーヴ軍縮会議も、アメリカとイギリスが散々揉めた結果、無効になってしまいました。

 世界の権限を死守するイギリス、それを奪いとろうとするアメリカ。

 19世紀はイギリスの覇権でしたが、20世紀はアメリカの覇権でした。

 当時は、ちょうどその転換点だったのでしょう。

 

 日中戦争に話を戻します。

 イギリスとしては日本と中国が戦争をされるのは、非常に困ります。

 すでにイギリスは中国に莫大な投資をしているし、その工業基盤が戦争によって破壊しつくされてしまってはたまったものではありません。

 

 一方、アメリカは日本と中国が戦争してくれることを望んでいました。

 アメリカの策略はこうです。

 蒋介石率いる国民党に物的支援をすることで恩を売り、傀儡化させる。そして日本と戦争をさせることで国力を疲弊させ、‘そのとき‘が来たら、中国権益をごっそりと入手してしまおうというのです。

 アメリカは蒋介石に働きかけました。

「日本は中国全土を植民地にしようとしている。我が国は全力で国民政府をバックアップいたします。」

 蒋介石としても中国から搾取することばかり考える日本よりも、物的支援をしてくれるアメリカに従いたいと考えていました。

 かつて蒋介石は中国軍が日本軍に比べて極めて弱体であることを自覚していました。下手に抵抗して、それを口実に日本軍の全面的な攻撃を受けることになれば、元も子もないと考えていたからです。

 しかし、アメリカが味方になってくれるということで、一気に強気な態度で対日抗戦を宣言したのです。

 中国の反日感情を煽り、日中を戦争に導いたのはアメリカだったのです。

 その証拠に、アメリカは日中の戦いが本格的になる前から、大量の援蒋物資を送っていたし、軍用機パイロット集団「フライング・タイガース」を300人派遣しています。
(フライングタイガース・・・日中戦争で国民党を支援するカタチで参戦したアメリ義勇軍の愛称です。戦闘機K-40は頑丈で急降下性能に優れた機体でした。)

 

 物事はアメリカの目論見とおりに進んでいったのです。

 一方で、日中戦争回避に必死になるイギリスは日本と同盟を組むことを提案しました。

 イギリス首相のネヴィル・チェンバレンは日英不可侵条約の締結を提案しました。

「もし、日本が中国と戦争したら、泥沼化するであろう。そんな時、我が国は仲裁に入る。そのためにここは手を組もうではないか。」

 しかし、日本はこれを拒絶しました。日英同盟破棄の恨みがあったのでしょうか。

 日本にとって一番の仮想敵国はソ連、次がアメリカです。そんな状況で日本が中国と戦争をはじめることがどれだけ愚かなことか。イギリスは自国の利権を守りつつも、極めて冷静に分析していたのです。

 20世紀の、アメリカは「世界の警察」と言われていましたが、この当時はイギリスが「世界の警察」だったのです。

 しかし、そんなイギリスが、その態度を変える出来事がすぐに起きてしまいました。ネヴィル・チェンバレンにかわり、戦争強硬派のウィンストン・チャーチルが首相に就任したのです。

「日本がそこまで拒否するならば、もう知ったことではない。」

 チャーチルは、ルーズベルトスターリンにも働きかけ、日本という共通の敵を倒すべく奔走するようになります。日本は完全に包囲されていくのでした・・・・。

 今回は日中戦争をテーマにした話でしたが、その裏にはアメリカの策略があったことには私も驚きました。太平洋戦争はすでに始まっていたのです。

 なぜ、日本はこんな状況に追い込まれてしまったのでしょうか。その最大の原因は、日本には資源がなかったということです。

 その解決策を中国に見出すも、欧米諸国から猛反発を受けてしまいました。資日本が中国での権益を諦めない限り、アメリカやイギリスとの対立も深刻化していく結果になります。

源がないから戦争に突入した日本、資源があるから戦争に突入したイギリスとアメリカ。

「戦うも亡国、戦わずとも亡国」

これは遅れてきた資本主義国・大日本帝国の宿命だったのでしょうか。

つづく。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

本宮貴大でした。

それでは。

 

参考文献
5つの戦争から読みとく日本近現代史 山崎雅弘=著 ダイヤモンド社
テレビではいまだに言えない 昭和・明治の真実  熊谷充晃=著 遊タイム出版
負けるはずがなかった!大東亜戦争   倉山満=著   アスペクト
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社

【日中戦争1】最大の原因は日英問題だった!?

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【日中戦争1】最大の原因は日英問題だった!?」というお話です。

 

 戦後の日本では、1931年の満州事変から1945年の日本降伏まで、まるで日本と中国が15年間にわたって戦争してきたかのように「15年戦争」と呼ぶ人達がいます。

 これは本当でしょうか。

 おそらく、1931年の満州事変とそれに続く満州国建国、そして1933年の日本の国際連盟の脱退によって日本と中国の関係が大きく悪化し、それが一直線に日中戦争へとエスカレートしたという認識なのでしょう。

 確かに満州事変から国際連盟脱退までの間に、日本と中国の関係が悪化したのは事実です。

 しかし、国際連盟脱退宣言が行われた1933年から盧溝橋事件が勃発する1937年までの4年間、日本は日本なりに関係回復のために政治工作をしました。

 対する中国も日本との関係を回復したほうが良いと考える人が多かったようです。

 そりゃ、仲直りが出来るならした方が良いですもんね。

 戦争なんて、誰がどう見ても最悪な選択肢ですし。

 

 ということで今回は、そんな仲直りをし始めていた日本と中国がなぜ再び対立し、日中戦争を始めてしまったのかを見ていきたいと思います。

 1931年の満州事変で、中国東北部一帯が日本の支配下に置かれた時、中国国内が一致団結して日本に対抗しようとしたわけではありません。

 この当時の中国国内は動乱の時代であり、蒋介石による北伐で統一機構は出来ていたものの、主義主張が全く異なる政権が乱立し、国としての統制は全くとれていませんでした。言ってみればこの当時の中国は‘無法地帯‘なのです。

 中央政府には蒋介石汪兆銘(おうちょうめい)を2大指導者とする国民政府でしたが、彼らは日本との直接対決は避けようとしていました。

 少なくても1930年代前半まではそう考えていました。

 というのも、この時、国民政府にとって最大の関心事は最大の政治的ライバルである共産主義勢力ですから。

「先安内、後攘外」

 これは蒋介石の言葉ですが、国内をまず安定させてから、外敵を追い払うという意味です。つまり、国民政府は国内政情の対処を最優先としており、日本どころじゃなかったのです。

 むしろ、蒋介石汪兆銘も日本人の禁欲的で規律を重んじる国民性をほめたたえており、過去に留学経験も持ち、日本に対する敬意と好感を抱いていました。

 そのせいか、国民党内部には親日派も多く、1933年5月31日に締結された塘沽協定では中国側は熱河省満州への併合を認めても日本への敵意が国民党内から噴出することはありませんでした。

 蒋介石満州国の建国に関して「仕方なし」として、容認しました。

 こうして満州事変から国際連盟脱退に至るまでの一連の日中間の紛争は一応、収束しました。

 そして日本は、満州国と中国本土との間に「緩衝地帯」としての親日政権を置きたいと考えており、当面は日本に協力したほうが得策と考えた地元政権の協力もあって、1935年11月に冀東防共自治政府が誕生しました。

 これに対し、国民政府も満州国との緩衝政府として同1935年12月、北京に冀察(きさつ)政務委員会蒋介石の了承のもと、発足されました。

 その委員長には軍人の宋哲元(そうてつげん)が任命されました。これによって国民軍は関東軍の南下を防ごうという意図がありました。

「冀」とは、河北省のこと、「察」とは、チャハル省です。

 こうして塘沽協定以降、日本と中国の関係は和平へと向かう、はずでした。

 そんな日本と中国はなぜ、日中戦争という過酷な道を進んでしまったのでしょうか。

 

 イギリスは通貨という武器を使って近代化を目指す中国に対し強大な影響力を持っていました。恐慌から行き場を失った日本が中国での利権を獲得しようとしてもイギリスに拒まれました。日中戦争とは、専ら、日英問題であったといえるでしょう。

 欧米列強の中でも特に中国の利権に関わりを持っていた国がありました。

 イギリスです。

 日本が軍事力を背景に中国への影響力を強めているのならば、イギリスは「通貨」という経済的な武器を使って中国への影響力を強めていました。

 1935年、中国統一を目指す国民政府は、緊急令を発して貨幣改革を断行しました。
 ‘無法地帯‘の中国では、貨幣制度も近代化されておらず、これが経済発展の妨げになっていました。そこで、無統一に流通していた多種類の銀貨や補助通貨を政府の指定した銀行が発行する「法幣」に統一することで、経済の安定化と国民政府の政治力強化を同時に実現しようと考えたのです。

 実は1933年以降、アメリカの銀買い上げ政策によって銀の国際価格が高騰しており、銀本位制をとる中国から大量の銀が流出し、中国内では深刻なデフレーションとなりました。これに対し、蒋介石は国内の銀を全て買い占め、銀本位制を廃し、替わって法幣を導入する管理通貨制度に移行することにしたのです。

 こうした蒋介石の発表に対し、イギリス政府は即座に法幣導入を全面的に支援するようになりました。当時のイギリスと植民地を含む経済圏にはポンド(スターリング)ブロックが形成されていました。イギリスは中国の通貨をこれにリンクさせることで、イギリスは対中貿易における為替変動のリスクを回避することが出来ました。

 国民政府としても、イギリスが法幣導入の支援は非常に助かりました。

 つまり、法幣の導入は、蒋介石政権を確固たるものにしましたが、それと引き換えに国民政府はイギリスの完全なる従属国となったことを意味していました。
イギリスは満州事変のずっと前から中国に莫大な投資をしていました。

 1936年時点で、満州国を除く中国全土には欧米から約18億ドルの投資が行われていました。その約6割にあたる10億8000万ドルは、イギリスの資金でした。(次はアメリカで2億2000万ドル)

 その中でも最も大きいのが工業基盤への投資で、その金額は3億3000万ドルにもなりました。

 もし、日本と中国が大規模な戦争を起こせば、こうした投資が全て破壊しつくされてしまうため、イギリスは日中戦争の勃発は何としても避けたいと考えていました。

 こうして、国民政府による法幣導入の発表がされてから10日後の1935年11月13日、アメリカとの間で「米中銀協定」が結ばれ、国民政府は買い占めた銀をアメリカに売却することで、為替安定資金を確保しました。

 実は、日本が冀東政権のような親日地方政権の樹立を図った理由には、こうしたイギリスの経済分野での対中進出を阻止するためでもありました。

 日本政府は親日的な国民党の実力者に「銀円の法幣への交換に協力するな」と圧力をかけたり、日本の支配地域での銀貨の輸送を妨害したりしました。

 しかし、こうした日本の動きとは全く逆効果となりました。

 国民党内部で日本に対する不信感や猜疑心を煽る結果となり、最初は日本に協力的だった親日派の中国人も、次第に日本から距離を置くようになりました。

 この時期、中国人の対日感情を悪化させた原因は他にもありました。

 特に不評だったのは、日本側が冀東政権の支配地域で「密輸」や「薬(やく)の密造と販売」を半ば公然と行っていたことでした。

 19世紀半ば、中国はアヘンの密輸に苦しめられ、戦争まで起こされている経験を持っています(アヘン戦争)。しかも、それを仕掛けたのは、中国の大株主であるイギリスです。

 日本が国際連盟脱退を発表してから2か月後の1933年5月に、国民政府は「国内産業を保護するため」との理由で、輸入品に対する関税を引き上げました。

 しかし、これによって日本の対中輸出は大きな打撃を受けていました。

 日本は輸出大国なのだから、輸入品に関税をかけられては大打撃を受けるのは当たり前です。

 それまで日本にとって一番のお客さんだったイギリスもアメリカも保護貿易ブロック経済)を行っており、ただでさえ苦しい状況です。日本が中国大陸を最大のマーケットとして景気回復の希望を見出したのも無理はありません。

 その中国でさえも保護貿易を始めようというのですから、たちまち日本は世界経済から閉め出されてしまいます。

 これによって、一部の貿易商は密輸という手段で対中貿易での利益を得ようとしました。しかし、国民政府の支配下にある地域では監視の目が厳しく大々的に密輸を行うことは事実上不可能でした。

 ところが、冀東政権の地域では親日派の地方幹部が実権を握っていたため、彼らは日本を配慮して、1936年2月以降、一定の手数料をと引き換えに正規の関税よりも低い関税での輸入を認める方針をとりました。

 しかし、こうした日本の国際ルールを破る行為は瞬く間に冀東政権地域から中国全土にひろがりました。

 関税収入を奪われた国民政府は激しく起こりました。

 また国内市場に介入されたことで中国の生産業者も激怒しました。

 再び排日運動が激しくなってきました。

 欧米各国も密輸という日本側のルール破りを激しく非難しました。特にイギリスは国民政府の関税収入を預かる英国系銀行の利益にも直結するため黙ってはいませんでした。

 こうした抗議を受けて日本政府は1936年6月27日、冀東政権を通じた密輸の停止を決定しました。

 しかし、そういった取り決めが通用しないのが、「裏ビジネス」というものです。日本の製薬会社は関東軍と癒着して、現地勢力に懐柔したり、政治工作を行うことで、大量の薬を売りさばいていました。

 中国人の日本に対する敵対心は再過熱しました。

 こうしたことが少しずつ積みあがった結果、中国国内では1936年から1927年にかけて日本人を敵視し、襲撃するテロが頻発するようになりました。

 こうした状況の中、1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋という橋の付近で日本と中国の衝突が発生するのでした・・・・。

 

 このように日本と中国の関係悪化の背景にはイギリスが関与していました。恐慌にあえぐ日本は、その解決の道を中国に見出そうとしても、イギリスの強欲ともいえる利権拡大に拒まれ、行き場を失ってしまいました。

 そうして状況から盧溝橋事件をきっかけに日本は日中戦争をはじめてしまった。しかし、中国での戦線が拡大するたびにイギリスは怒りを増していく。

日中戦争とは、専ら、「日英問題」であったといってもよいでしょう。

 

つづく。

最後までよんでいただき、ありがとうございました。

本宮貴大でした。


参考文献
5つの戦争から読みとく 日本近代史       山崎雅弘=著  ダイヤモンド社
負けるはずがなかった! 大東亜戦争       倉山満=著  アスペクト

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著   祥伝社

【第二次世界大戦】なぜ世界は2つの勢力に分かれたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【第二次世界大戦】なぜ世界は2つの勢力に分かれたのか」というお話です。

 まず、第二次世界大戦の対立構造をみていく前に予備知識をご説明します。

 それは植民地の定義です。それをはっきりさせてから話を進めたいと思います。

 
 宗主国にとって植民地とは原料産出国であると同時に、自国で生産した商品を現地に売りつけるマーケットなのです。

つまり、植民地の理想形次の2点です。

1. 豊富な資源を持っていること。

2. 多くの人口を抱えていること。

 以上の予備知識を持ったうえで、本題に入ります。

 第二次世界大戦の対立構造は、「持てる国」と「持たざる国」の対立とされています。

 「持てる国」とは、世界各地に植民地を持つ国または広大な国土を持つ国のことを言います。いわゆる連合国陣営(イギリス、フランス、アメリカ、ソ連、中国)のことです。

 一方、「持たざる国」とは、世界各地に植民地を持たない国のことを言います。いわゆる枢軸国陣営(イタリア、ドイツ、日本)のことです。
今回はそんな世界の主要国が2つの勢力に分かれる過程を見ていきたいと思います。

 世界恐慌に対し、植民地を持つ「持てる国」はブロック経済で対応。その一方で、植民地のない「持たざる国」は、全体主義ファシズム)に傾いていきました・・・・。

 20世紀初頭(1910年代)、世界に多くの植民地を持っていたのはイギリスとフランスでした。

 特にイギリスは世界の総面積の約4分の1を植民地としており、世界人口の5分の1の4億人を支配下に置く超帝国主義国家でした。

 一方、ドイツやイタリア、そして日本は後発の帝国主義国だったこともあり、イギリスやフランスのような広大な植民地を保有しえませんでした。

 しかし、同じ後発の帝国主義国家でもアメリカのように、豊富な資源を有する広大な国土を持つ国もありました。さらに米墨戦争で、石油が採掘できる旧メキシコ領のテキサスなども併合するなどして、よりいっそう資源に困らない強国へと成長していきました。
米墨戦争・・・1846年~1848年までに起きたアメリカとメキシコの戦争)

 さらに、ロシア革命で成立したソ連も、指導者レーニンの死後、スターリンが実権を握り、五ヵ年計画による重工業と農業の大躍進を推し進めました。

 

 1914年に勃発した第一次世界大戦(第二次じゃないですよ。注意してください。)は、ヨーロッパの荒廃とともに、膨大な犠牲者を出してしまいました。

 近代兵器を駆使し、すべての国民を巻き込む国家総力戦に、滅亡の淵をみた人類は、これまでの帝国主義に基づく海外進出を反省し、一転して平和協調の時代へと移っていきました。

「二度とこんな過ちは起こしてはならない。」

 そんな願いを込めて、1920年にイギリス、フランス、イタリア、日本を常任理事国とした国際連盟が発足、1926年にはドイツも加盟し、ヨーロッパの国際秩序が完成しました。

 以降、軍縮条約が次々に締結されていき、世界規模での和平プランが完成しました。

 

 しかし、そんな秩序は脆くも崩壊し、人類は2度目の世界大戦を経験するのでした・・・・。

 1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落。世界経済の中心であるアメリカで発生したこの恐慌を発端とした大不況は世界に波及し、世界恐慌となりました。

 各国は対応に迫られます。

 イギリスやアメリカなどの持てる国は保護貿易ブロック経済)を開始しました。

 ブロック経済とは、他国からの輸入品に高い関税をかけることで、国内への流入を防ぎ、本国と植民地との間だけの経済圏(ポンド・ブロックやドル・ブロック)をつくり、経済の回復を図る政策のことです。

 しかし、そんなブロック経済はイギリスやフランス、アメリカなどの「持てる国」しかできない政策で、ドイツやイタリア、日本などの「持たざる国」は苦境に陥りました。

 それでも、輸出大国であった日本は円安を利用して輸出を増大させ、景気をV字回復させました。

 しかし、輸出大国である日本にとって、イギリスなどのブロック経済は大打撃でした。イギリスやアメリカは大事な貿易相手国です。そんな彼らが事実上の輸入制限を行ったのですから、日本は経済から閉め出されてしまうのは当然です。

 これに対抗するには、日本も円ブロック(経済圏)をつくるしかありません。そのためには台湾、朝鮮だけでは足りません。豊富な資源と多くの人口を抱える中国大陸にも進出する必要がありました。

 そして1931年、日本は満州事変を起こし、翌1932年には満州国を建国するも、国際連盟に認められず、翌1933年に国際連盟を脱退しました。

 

 国際連盟とは、通称「ヨーロッパの揉め事処理機関」ともいわれていますが、中立国である日本がいなくなったことで、ヨーロッパの国際秩序はあっという間に崩壊していきました。

 ドイツでは1932年に台頭したヒトラー率いるナチス党(国家主義ドイツ労働者党)が第一党となり、実権を握ります。

 ヒトラーの目的はヴェルサイユ体制の打破と再軍備政策でした。そのためにまず、1933(昭和8)に日本の後を追って国際連盟を脱退し、1935(昭和10)年3月には国防軍編成法を発布して再軍備に踏み切りました。

 こうした大拡張政策によってドイツはあっとう間に世界恐慌から脱出しました。

 

 イタリアでは、すでに政権をにぎっていたムッソリーニが経済政策の失敗を取り戻すために、リビアエチオピアへの侵攻に踏み切りました。

 エチオピアは独立国ですが、人口が多く、自国の商品を売りつけるマーケットとしては喉から手が出るほど欲しい国です。

 しかし、エチオピアの周辺にはイギリス、フランス、イタリアの植民地がひしめき合い、3国はエチオピア侵攻を互いに牽制し合っていました。

 そんな中、イタリアだけが「抜け駆け」的にエチオピアに侵攻したため、イギリスとフランスは大激怒。

 かつて植民地獲得を争うライバル同士だったイギリスとフランスは、ここにきてイタリアという共通の敵を倒すべく手を組みました。

 

 他方、イギリス・フランスから非難を受けたムッソリーニは仲間が欲しくなり、やドイツに接近するようになりました。

 当初、ヒトラームッソリーニオーストリア併合問題などにより、どちらかといえば対立的関係にありました。

 そんなイタリアとドイツが手を組むきっかけとなったのはスペイン内戦でした。現代では、このスペイン内戦は第二次世界大戦のリハーサルだったともいわれており、

 1936(昭和11)年2月、スペインで反ファシズムを掲げる人民戦線内閣が成立したのに対し、フランコ将軍に指揮されたファシズムを掲げる軍人たちが暴動を起こし、反乱はスペイン全土に広がりました。

 ヒトラームッソリーニはこの機に乗じてスペイン全土を手中に収めたいと考えるようになりました。

 ヒトラーはスペインの鉄鉱石など地下資源を手に入れたいと考え、ムッソリーニはスペインから地中海の覇権を奪い、「イタリアの海」にしたいと夢見ていました。

 しかし、そんなファシズム勢力に反対するソ連が、スペインの人民戦線内閣(政府側)を支援するようになりました。ソ連社会主義国家であったため、世界恐慌の影響を受けておらず、急速に国力を増大させていました。

 これに対し、ヒトラームッソリーニファシズム勢力であるフランコ将軍を支援するようになりました。

 これがきっかけとなり、ドイツとイタリアはソ連という共通の敵が現れたことで互いに手を組むようになりました。

 なお、イギリス・フランスはスペイン内戦に対しては、不干渉政策をとっています。先の世界大戦でドイツの脅威を経験しているからです。

 こうして1936(昭和11)年11月10日、ドイツとイタリアは友好協定を結びました。
 ムッソリーニはこの独伊関係を称えてムッソリーニは「枢軸」という言葉を初めて口にしました。

 

 一方、満州国を建国した日本ですが、意外にも資源が取れず、中国大陸へさらなる領土拡大を狙っていました。

 そうした中、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件を機に日本と中国は全面戦争に突入することになりました。

 こうした日本の中国進出に対し、イギリスは敵対心を強めます。

 イギリスは日本よりもずっと前から中国を巨大市場として開拓しており、それが日本の侵攻によって損なわれていることに反発していたのです。

 日本とイギリスは決定的に対立しました。

 イギリスは中国政府に物資を支援し、蒋介石率いる中国政府も国際世論を味方につけるべく、国際社会の同情を集めることに奔走し、イギリスをはじめ世界各国からの支援を得ることに成功しました。

 その中にはアメリカも含まれていました。

 中国進出に出遅れていたアメリカも日本を敵視するようになり、石油などの対日輸出の制限を勧告し始めました。

 こうしてイギリスとアメリカは日本という共通の敵を倒すべく手を組むようになりました。

 

 その頃、ヨーロッパでは、ドイツがゲルマン民族統一国家樹立をお題目として掲げ、隣国オーストリアの併合を済ませ、さらに1938年にはチェコスロバキアゲルマン民族が多く住むズデーテン地方割譲を英仏にも認めさせました(ミュンヘン協定)。

 しかし、その約束は舌の根を乾かぬうちに破られ、1939(昭和14)年3月にプラハに進駐してチェコスロバキアそのものを解体してしまいました。

 そして、1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって、遂に第二次世界大戦が勃発しました。

 ドイツの侵攻はすさまじく、あっという間に周辺諸国は占領されました。そして1940年6月にはパリが陥落してフランスが降伏、イギリスはヨーロッパで孤立してしまいます。

 

 ヨーロッパでの破竹の勢いを続けるドイツを目の当たりにした日本はドイツと手を組みたいと考えました。アメリカやイギリスに対抗するためです。

「この大戦はドイツの勝利に終わる。バスに乗り遅れるな!」

 とばかりにイタリアも加えた日独伊三国同盟の締結に急ぎました。

 そして1940年9月7日、日独伊三国同盟が結ばれました。その内容は、三国のうちの1か国が英・米・ソのいずれかと開戦した場合、他の2か国も参戦するというものでした。

 この同盟にアメリカは大激怒しました。

 ルーズベルト大統領は、日独伊がめざす世界新秩序は「全人類を支配し奴隷化するための権力と金力との邪悪な同盟」だとラジオで呼びかけました。

 そしてルーズベルトは、日本・ドイツ・イタリアを「悪の枢軸国」とし、イギリス・フランス・アメリカ・ソ連・中国を「正義の連合国」としてやさしく図式化したのでした。

 

 このように悪の枢軸国として仕立て上げられてしまったドイツ・イタリア・日本ですが、それは「持たざる国」であるがゆえに、経済から閉め出されてしまったという経緯があったのです。それは遅れてきた資本主義国の宿命だったのかもしれません。

 

以上。

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

本宮貴大でした。

 

参考文献
「昭和」を変えた大事件             太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
今さら聞けない日本の戦争の歴史         中村達彦=著 アルファポリス
教科書には載ってない 大日本帝国の真実     武田知弘=著 彩図社
知識ゼロからの太平洋戦争 入門         半藤一利=著 幻冬舎
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著  祥伝社
教科書よりやさしい世界史                   旺文社