日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【奈良時代の権力闘争3】称徳天皇と道鏡

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

奈良時代の権力闘争3】称徳天皇道鏡

藤原仲麻呂恵美押勝)の乱後、退位していた孝謙上皇が再び天皇の位につき、称徳天皇となります。称徳天皇は寵愛する僧の道鏡に大政大臣禅師とし、さらに法王という天皇に準ずる新しい地位を与えるという異例の待遇を与えます。

 764年、藤原仲麻呂恵美押勝)の乱後、孝謙上皇(女帝)は、淳仁天皇を退位させ、自らが再び即位(重祚)し、称徳天皇となりました。

 その後、称徳天皇は自分の病気を治してくれた仏僧の道鏡を身近に仕えさ、左大臣や右大臣と同じ立場の大臣禅師に任じました。

 さらに、766年には道鏡天皇に準じる地位である法皇に任じるという前代未聞の待遇を与えました。

 

 おそらく、称徳天皇道鏡は男女の関係にあったと思われます。

 これまで称徳天皇は独身を貫いており、今までまともな恋愛などしたことはなかった。

 そんな彼女が道鏡と出会ったのは44歳の時でした。ようやく運命の男性に出会えた称徳は、異例の待遇を道鏡に与えたのです。

 しかし、この背景には、当時、天災や飢饉などが相次いでおり、国家全体の安泰を願って、仏僧である道鏡とともに政治を行っていこうという称徳天皇の意図もあったと考えられています。

 いずれにしても、称徳天皇道鏡に対する信頼を非常に厚いもので、道鏡は仏僧という身分から天皇と同等の法皇になるという異例の出世を果たしたのです。

 

 これをいいことに道鏡は飽くなき野心をむき出しにし、自分の親族や弟子に寺院や朝廷で高い地位に就けました。例えば、道鏡の弟は九州の大宰府長官に就任しています。

 これに、貴族や仏教界は猛反発しました。

 さらに、道鏡は寺院の開墾地の所有は認めても、貴族の開墾地の所有は認めないという非常に偏った理不尽な政策を行いました。当時は墾田永年私財法の成立によって、開墾した土地はその開墾者が永久に所有することが認められていました。

 

 こんな道鏡の政策に貴族たちが黙っているわけがありません。

 

やがて、道鏡天皇になるかもしれないという事件(宇佐八幡神託事件)が起こります。皇族出身以外が天皇になるという前代未聞の事件を和気清麻呂が阻止し、称徳天皇が没すると、道鏡は後ろ盾を失い、下野薬師寺に左遷されました。

 そして769年、遂に道鏡天皇になるかもしれない事件が起きました。宇佐八幡宮神託事件です。

 宇佐八幡宮大分市)で神託(神のお告げ)がありました。

道鏡皇位につけよ。さすれば、天下は太平となるであろう」

これを聞いたのは、九州の大宰府長官である道鏡の弟でした。

しかし、朝廷内の貴族たちは、このお告げに不信感を持ちました。

「これは、道鏡の弟が宇佐八幡の神官に協力させて、神託を出させたのではないか。言うまでもなく、道鏡の策略だ。」

しかし、称徳天皇は大喜びです。

 

 一方で、貴族たちのあまりの反発もあり、称徳天皇はお告げの真偽を確かめるため、役人の中でも特に清廉潔白といわれた和気清麻呂宇佐八幡宮まで使わせました。

しかし、宇佐八幡宮に赴いた清麻呂が聞いた神託は全く別のものでした。

「我が国始まって以来、臣下が天皇になったことなど一度もない。天皇は皇族から選べ。無道(皇族でない血筋)の者が天皇になってはいけない」

この神託に従うならば、僧の道鏡は当然、皇位には就けない。今すぐ追放せよということになります。

 

 この清麻呂の報告を聞いた称徳天皇道鏡は腹を立て、清麻呂大隅国(鹿児島県東部)に流罪としました。

 しかし、朝廷内でも道鏡天皇にすることには猛反発が起きており、結局、称徳天皇道鏡皇位につけることはせず、翌年失意のうちに53歳で生涯を閉じた。

 彼女の死後、道鏡は深く悲しみ、読経の毎日を過ごしたといいます。しかし、これによって後ろ盾を失った道鏡は、まもなく下野国(栃木県下野市)の薬師寺に左遷され、それから2年後に亡くなりました。

 

以上。

参考文献

教科書よりやさしい日本史     旺文社

日本の歴史1       旧石器~平安時代

【奈良時代の権力闘争2】孝謙天皇と藤原仲麻呂(恵美押勝)

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

聖武天皇の後を継いだのは、孝謙天皇でした。それに加えて藤原仲麻呂光明皇太后の信任を得て権力を充実させ、諸兄を失脚に追い込み、諸兄の子・橘奈良麻呂の変を経て、仲麻呂の権力が確立しました。 

 奈良時代半ばの朝廷は、どんなようすだったでしょう。

 749年、聖武天皇から皇位を譲られて即位したのは、女性の孝謙天皇でした。譲位した聖武天皇太上天皇になりました。

 大納言の藤原仲麻呂は叔母(おば)の光明皇太后のためにつくられた役所である紫微中台の長官となり、朝廷を中心にたちました。仲麻呂は藤原4兄弟のひとりであった藤原武智麻呂の子です。叔母(おば)の光明皇太后に信頼されて、実権を握ったのです。

 

 そのころ、皇太子は新田部親王の子の道祖王でした。

 757年、聖武太上天皇崩御すると、仲麻呂は、道祖王を素行が悪いという理由で辞めさせました。

 かわって、皇太子になったのは、舎人親王の子で仲麻呂の養子の大井王でした。

 同じ年、左大臣橘諸兄の死後、その子である橘奈良麻呂が女性の天皇を認めず、天皇仲麻呂を除こうと反乱を計画しますが、失敗します。

権力を確立した藤原仲麻呂は、自ら擁立した淳仁天皇のもとで全権を握り、名前も恵美押勝を賜り、政策を進めました。しかし、光明皇太后が亡くなると、仲麻呂は後ろ盾を失い、孝謙上皇と僧・道鏡と対立するようになりました。追いつめられた仲麻呂上皇道鏡を排斥しようと764年に兵をあげるも、敗れ去り、殺されてしました。(恵美押勝の乱

 翌758年、仲麻呂は大井王を担ぎ上げると、孝謙天皇に対して、大井王に皇位を譲るように圧力をかけました。孝謙天皇はこれに従い、大井王は淳仁天皇として即位しました。

 こうして仲麻呂は、自ら擁立した淳仁天皇を傀儡として、自らは右大臣になりました。

 そして、760年には朝廷の最高職の太政大臣になります。名前も恵美押勝という名を賜りました。

 

しかし、この年、仲麻呂が後ろ盾としていた光明皇太后が亡くなりました。

その結果、仲麻呂は、孝謙上皇と対立するようになりました。

一方の孝謙上皇は、自らが病気になったとき、必死で看病をしてくれた河内国大阪府東部)出身の道鏡という僧を信頼して、重用するようになっていました。

ここに、淳仁天皇藤原仲麻呂孝謙上皇道鏡の対立構造が出来上がりました。

孝謙天皇道鏡の重用ぶりに危惧を覚えた仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、孝謙上皇道鏡を朝廷内から追放するように働きかけました。

道鏡を寵愛し過ぎないように。彼は仏僧だぞ。朝廷内で権力を振るってもらっては困る。」

これに対し、孝謙上皇は大激怒し、淳仁天皇を無礼だと非難しました。

そのうえで孝謙天皇は天下に宣言しました。

「これからは国家の大事や賞罰はすべて、私が行おう。天皇は小事だけやっていればよい。」

これは孝謙天皇の事実上の政権奪取宣言でした。

朝廷の貴族たちは、仲麻呂の専横ぶりに不満をもち、その傀儡で皇統の中での傍系の淳仁天皇も蔑視していたので、孝謙天皇の宣言は支持されました。

 こうして自分の意のままになる淳仁天皇が政治から遠ざけられたことで仲麻呂は焦りました。

 そして、ついに764年、仲麻呂は起死回生を図ろうと兵を出しました。仲麻呂朝鮮半島新羅に出兵するという名目でひそかに兵を集め、反乱を起こし、孝謙上皇道鏡の排斥を企てました。(恵美押勝の乱

 しかし、こうした仲麻呂の謀反の動きは、朝廷に筒抜けであり、孝謙上皇は先手を打って朝廷軍を差し向けました。

戦いは、朝廷軍が勝利し、仲麻呂は敗走しました。

 仲麻呂自身はその場を逃れるも、結局は追いつめられ、琵琶湖西岸で殺されました。

こうして、恵美押勝の乱が鎮圧されると、淳仁天皇は退位させられ、孝謙天皇が再び即位(重祚)し、称徳天皇となりました。

その後、称徳天皇は、道鏡を側近として政治を行っていくのでした。

 

以上。

【奈良時代の権力闘争1】橘諸兄と藤原冬嗣

こんにちは。本宮貴大です。

この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。

今回は、『【奈良時代の権力闘争1】橘諸兄藤原冬嗣』というお話です。

 

 長屋王の変によって、左大臣長屋王がいなくなった朝廷では、大納言の藤原武智麻呂が実権を握り、弟の房前に加え、宇合、麻呂が参議となりました。

この4人の兄弟がたてた家系を藤原四家といい、南家・北家・式家・京家に分かれました。

 藤原氏が公卿(上級貴族)10人のうち半数近くを占めたので、「公卿はひとつの氏族からひとり出す」という朝廷の慣例が崩れました。

 しかし、武智麻呂は聖武天皇の意を組み、葛城王(後の橘諸兄)と長屋王の弟の鈴鹿王を参議にしてバランスを取りました。

 武智麻呂は聖武天皇の命令により、再建中の難波京を宇合に造営させ、麻呂を多賀城に派遣して朝廷に従わない蝦夷(東北地方の住民)への対策を立てようとしました。

 

 こうして藤原氏の4兄弟が朝廷の中心となって政治を進めていたとき、思いがけない災難が起こりました。

 735年から九州で流行していた疫病(天然痘)が東へと伝染してきて737年には平城京にも広がり、数えきれないほどの死者を出しました。

 疫病は朝廷にも蔓延し、4月から8月はじめにかけて藤原4兄弟の命を次々に奪いました。

聖武天皇は各国の神社に疫病退散の祈りをさせ、僧たちには経を読ませました。

 

 藤原4兄弟が相次いで死んだことで、藤原氏の政権は後退しました。天皇にとっては気を遣う人々がいなくなり、自由に政治を動かすことが出来るようになりました。

 この年、聖武天皇は重い病気だった母の宮子と36年ぶりに対面することが出来ました。唐(中国)から帰国した玄昉という僧によって病気が治ったからです。

 藤原4兄弟が急死した後、トップについたのが橘諸兄でした。

 738年、朝廷では皇族から臣下になった橘諸兄が右大臣に抜擢されました。棚ぼた式に権力の座についた諸兄でしたが、政権運営には優柔なブレーンを必要としました。

そこで起用されたのが、吉備真備や玄坊でした。

彼らは遣唐使として派遣されたのち、帰国し、聖武天皇の信頼も非常に厚く、唐の進んだ文化を知り尽くした学者たちでした。

また、この年、聖武天皇の娘で21歳の阿部内親王(後の孝謙天皇)を皇太子にしました。日本の歴史上、ただ一人の女性皇太子です。

 

740年、藤原宇合の子である藤原広嗣が反乱を起こしました。広嗣は「政治が混乱し、世の中に災いが起こるのは、僧の玄昉や吉備真備が朝廷で我がもの顔に振る舞っているからだ。彼らを追放するように」と訴えたのです。

広嗣は、藤原4兄弟の死後、藤原一族の勢力が弱まったことに不満を抱き、しばしば暴言をはいたりしたので大宰府に左遷されてしまい、それに我慢できずに兵を集めたのでした。

 

聖武天皇は怒りました。

「広嗣は小さいときから狂暴で、わたしが今までかばってきたのに、こういう振る舞いは許せない」

そう言って、大軍を送るよう命じました。

九州についた朝廷軍は広嗣軍に向かいました。

「広嗣は反逆者だ。朝廷軍に抵抗すれば罪は家族や親族におよぶぞ」

そう言われて、広嗣軍は次々に降伏していきました。結局、広嗣は捕らえられ、処刑されました。

 

以上。

参考文献

日本の歴史  旧石器~平安時代    ポプラ社

 

【どう違う?】奈良時代の貴族と農民の生活

こんにちは。本宮 貴大です。

今回のテーマは「【どう違う?】奈良時代の貴族と農民の生活」というお話です。

 

奈良時代の大きな特徴として、貴族と農民の生活水準に雲泥の差があることです。

まず、貴族の生活ですが、奈良時代律令制度が完成し、その制度が地方にもゆきわたると、都には、地方の農民たちが納める税として租や調(絹などの地域の特産物)が送られてきました。

つまり、貴族の生活は農民たちの苦労の上に成り立っていたのです。

 

では、貴族の生活から見ていきましょう。

まず、衣類ですが、貴族たちは遣唐使によってもたらされた唐風の暮らしぶりを好みました。華やかな色もようが流行し、衣類の材料も豪華な絹織物が使われ、女性のあいだでは現代人顔負けの髪型や化粧が流行りました。

次に食事ですが、奈良時代は、律令制が整い、都には、税として調(地域の特産物)が送られてきたのは先述通りです。

その中は、山の幸や、海の幸が非常に豊富で、貴族たちの食生活を豊かにしました。

奈良時代の貴族は、一日二食で、漆の器で食事をしていました。

白米の飯を食べ、おかずには、鯛のあえもの・鮎の煮つけ・かわめ汁・漬物・栗・里芋・枝豆・くるみ・梅・びわ・寒天などが揃えられ、酒もありました。

唐から持ち込まれた牛乳を飲む習慣も広まり、チーズやバターのような乳製品もありました。さらには米粉を使って油であげた菓子のようなものまでありました。

そして、特別な日には、ウニやサザエ、カニなども食べていたようです。

 

最後に住居ですが、貴族たちは位に応じて、土地を与えられました。

塀で囲まれた屋敷の中には、主人の家、その家族の家、そして家政を運営する人達(召使い)の住む家、倉庫、食事を用意する厨房、馬屋などが並んでいました。

部屋の中には、細工が施された机、いす、箱、置き棚(厨子)など豪華な調度品が室内を飾りました。現在、奈良の正倉院には皇室や貴族が使った家具や調度品が残されています。

 

こんな誰もがうらやむ生活をしている貴族とは、裏腹に、この時代の庶民の暮らしはかなりつらいものでした。

 

では、庶民の暮らしはどのようなものだったのでしょうか。

まず、身分制度ですが、人々は良民と賤民に分けられた。

賤民には自由はなく、官有(国が所有している者達)には陵戸・官戸・公奴婢と、私有には家人・私奴婢があり、合計で5種類(5色の賤)がありました。特にこの奴婢と呼ばれる人達は、いわゆる奴隷であり、売買の対象にされるというひどい扱いを受けていた。

 

万葉集』の歌人山上憶良の「貧窮問答歌」には、次のような内容の歌があります。

「わたしは、人並みに田をつくって働いているのに、麻布でつくった袖なしの服は海藻のようにぼろぼろだ。今にもつぶれそうな家の中で、家族は地面にわらをしいて寝ていている。かまどには火の気がなく、米を蒸すための‘こしき‘には蜘蛛の巣まで張っている。そこへムチを持った里長(役人)が税を取り立てようとやってきて大声でわめく、世の中を生きていくのはこんなにもつらいものなのか」

 

このように律令制のもとにある地方の農民たちの生活は非常に苦しいものでした。

衣類においては、二枚の布を縫い合わせて頭・腕・足が出るようにした粗末な服を着ていたようです。

食事は、貴族同様一日二食でしたが、玄米や雑穀、青菜汁などを土器を使って食べていたようです。

住居に関しては、旧石器時代から続く竪穴式住居に住んでいました。

 

律令制の税の主なものに租・調・庸がありますが、租は田にかかる税で稲2束2把(収穫の3%)で軽いものです。ところが、男子だけに課される調や庸はとても重く、雑徭という労働力を提供するものでした。

 

さらに、庸や調を都へ運ぶ運脚も税のひとつで、これも男子に課されるものでした。運脚に任命されると、食事、寝具、炊事道具などを自分で用意し、都までは野宿を続けなければなりませんでした。特に遠方から来た農民たちは、帰国の旅路で食料が尽き、餓えて行き倒れる人々も大勢いたようです。

その他に、21歳~60歳(正丁)の3~4人に1人の割合で、兵士として兵役に従事しなければなりませんでした。兵士は各国に設置された軍団で訓練を受けます。

その中の一部は1年間、皇居の防衛にあたる衛士になり、その他の者は防人となって、3年間北九州の防御のための兵隊となりました。この時代の外敵は朝鮮や中国が想定されていたので、一番近い北九州が防御のための対象でした。

この兵役の負担も大変で、命懸け任務なうえに、武器や食事も自分で用意するのが原則でした。

 

先ほど紹介した『万葉集』には防人の詠んだ歌もあります。

「父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねる」

これは、防人として旅立つ日に、父と母が自分の頭を撫でて「無事でいろよ。元気でね。」と言ってくれた言葉が心に残って忘れられない。という意味です。

 

また、こんな歌もあります。

「唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして」

自分の服の裾にすがりついて「お父さん、行かないで」と泣きつく子供たちを置いて防人に出てしまった。子供たちには母親もいないのに。という意味です。

このように働きさかりの男たちがいなくなった家族は悲惨で、ぎりぎりの生活をしいられていました。

 

今回は、奈良時代の貴族と農民の暮らしの違いを見てきました。農民に比べて貴族の暮らしは本当に豊かなものだったことがわかりました。

しかし、貴族社会には、ドロドロの権力闘争がありました。貴族社会では、身分の上の者に下手に逆らうと無実の罪を着せられ、ひどいときには処刑されることもありました。

また、身分の上の者同士でも位や役職をめぐって争いがありました。

そう考えると、貴族たちの生活も実は決して楽なものではなかったといえるでしょう。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

オールカラーでわかりやすい 日本史         西東社

読むだけですっきりわかる 日本史     後藤武士=著 宝島社文庫

中学 見て学ぶ 国語             受験研究社

教科書よりやさしい 日本史         石川正康=著   旺文社

日本の歴史1  旧石器~平安時代          ポプラ社

【長屋王の変】長屋王事件の真実とは? 

こんにちは。本宮 貴大です。

長屋王の変長屋王事件の真実とは?

 

大化の改新で活躍した2人の人物といえば誰とだれでしょうか。

そうですね。中大兄皇子中臣鎌足です。

この2人は、共に戦い、蘇我氏を滅ぼしました。

ですが、皮肉にも、この2人の子孫が後世になって熾烈な権力争いをするようになるのです。

 

中臣鎌足は、死ぬ間際に藤原の姓を賜りました。大化の改新の一連の功績を認められて褒美としてもらった姓でした。

以降、皇族勢力と藤原氏勢力の熾烈な権力争いをするようになるのです。

 

藤原氏のご先祖とは、藤原鎌足だったのです。

8世紀の初めに政治権力の中枢を担ったのは、中臣鎌足の息子である藤原不比等でした。

藤原不比等は、天皇家との姻戚関係を形成して権力を確保するとともに、和同開珎の発行や平城京遷都、そして718年には自らが先頭に立って大宝律令に変わる養老律令の制定を実現するなど律令国家の構築に大きく貢献した偉大な政治家でした。

 

この不比等には2人の娘がおり、1人目の娘・宮子は文武天皇の夫人とし、その間に生まれた首皇子(後の聖武天皇)には、2人目の娘・光明子を嫁がせ、首皇子を皇太子にしました。

自分の娘の子、つまり孫と、さらに自分の娘を結婚させるという現在では、到底考えられないことですが、これによって、藤原氏出身の天皇の誕生が内定し、不比等天皇家外戚として権力者に成り上がりました。

 

しかし、720年に不比等がなくなると、その息子たちはまだ若かったので、皇親天皇一族)勢力を代表する長屋王がトップに立つようになりました。長屋王天智天皇天武天皇の孫にあたる非常に血統の良い皇族です。

長屋王は時の天皇元正天皇(女帝)に代わって、政治を運営しました。

 

724年、首皇子聖武天皇として即位しました。同時に長屋王左大臣に就任し、政権運営のトップに立ちました。聖武天皇は17歳年上の長屋王を右腕として信頼していました。

 

やがて不比等の息子たちが台頭してくるようになります。武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟で、光明子のお兄さんたちです。

彼らは長屋王を排斥して、聖武天皇の夫人・光明子を皇后にしようと画策し始めました。

これまで天皇には奥さんが何人もいました。しかし、正妻で皇后になれるのは一人だけです。しかも、皇族出身以外の女性は天皇の妻になることは出来ても、皇后になることは出来ませんでした。

これまでの女帝である推古や持統も、皇族出身で血統の良い家系です。

なので、長屋王藤原氏出身の光明子が皇后になることには当然反対です。前例がないからです。

聖武天皇にとって長屋王は、大事な側近です。しかし、藤原4子からすれば、煙たい存在であることは変わりありません。

ここに藤原4子と長屋王の権力争いがはじまりました。

 

ちょうどこの頃、首皇子光明子のあいだには、基王(もといおう)という男の子が生まれました。

この基王は、生まれてすぐに皇太子となりました。これは藤原4子の働きによるものですが、これによって藤原氏は家系の血を引いた天皇を誕生させることに成功しました。

しかし、この基王が1歳になる前に亡くなってしまいます。

当然、両親である首皇子光明子は深く悲しみ、藤原4子にとっても大きな痛手でした。

 

そこで、藤原4子は、基王の死は長屋王が呪詛したことが原因であるなどと、言いがかりをつけ、同時に「長屋王が謀反を企んでいる」と訴えました。

 

この時、長屋王は写経(経典を写しとること)に励んでいましたが、その後書きが基王を呪い殺したのだという噂が広まりました。

明らかな藤原4子の働きによるものです。

さらに、「長屋王がひそかに左道(邪悪な道)を学び、国家を傾けようとしている」という密告も入りました。

 

聖武天皇は事実を確認するために、長屋王の邸宅に使者を派遣しました。

しかし、すでに藤原氏長屋王体を兵で取り囲んでおり、長屋王は弁明の機会も与えられず、妻と子供とともに自害しました。

結局、聖武天皇自身は、事実関係を確認できないままとなってしまいました。

729年の出来事です。これを長屋王の変といいます。

長屋王が本当に謀反を計画していたかどうかはわかりませんが、平城宮からは呪術に使ったと思われる人形や人面墨書土器などが見つかっています。現代人からすれば、呪いなんて信じないでしょうが、当時は、そういった呪術行為が慣習的に行われていたようです。

いすれにしても、この長屋王事件によって朝廷の権力は藤原兄弟に移りました。

 

そして、長屋王の変後、光明子光明皇后としてたてられ、皇族以外の出身として初の皇后が誕生しました。これは、当時としては異例中の異例でした。

長屋王の事件後、藤原武智麻呂は大納言に昇格しました。これで聖武天皇光明皇后のあいだに、新たな皇子が生まれれば、武智麻呂は外戚として権威をふるうことが出来、藤原氏の皇室における権力はより強大なものとなっていきます。

 

 

以上

日本の歴史 旧石器~平安時代   ポプラ社

読めばすっきり! よくわかる日本史    河合敦=著  角川SSC新書  

【墾田永年私財法】なぜ公地公民制は崩壊したのか

こんにちは。本宮 貴大です。

【墾田永年私財法】なぜ公地公民制は崩壊したのか

 

 狩猟しながら移動する人々にとって、土地をもつことはそれほど意味を持たない。

 人々が土地に執着するようになったのは、農業がはじまり、定住生活をするようになったからです。つまり、縄文時代後期から弥生時代にかけてです。

 そして、よりよい土地をめぐって戦争がはじまり、その争いに勝ち残っていった一族が豪族とよばれる支配階級になりました。

 

 古墳時代になると、豪族の連合政権として発足した大和政権でしたが、飛鳥時代になり、天皇に権力が集中するようになると、有力豪族らは次々に権力を奪われていきました。

 

 そして、ついに645年、豪族の中でも、強大な勢力をほこっていた蘇我氏さえも乙巳の変によって滅ぼされてしまいました。

翌646年、朝廷は4か条にわたる「改新の詔」を発表しました。

その一条に「公地公民制」がありました。

 これは、私有地すべてを接収し、国家の所有とする法律で、当時としては大変な土地制度の改革でした。

 このとき同時に、班田収授法という法律が制定されたといわれているが、同法が確実に施行されるのは701年の大宝律令以後です。

 同法は6歳以上の者に口分田(土地)を貸し与える制度で、国民を「良」と「賤」にわけ、良民には2段の面積を、賤民にはその3分の1を貸し与えた。

 もちろん、ただで土地が分配されるわけはなく、男には祖・調・庸といった租税が課された。これがかなり重い税で、土地を捨てて流浪する者、逃亡する者が続出してしまいした。男子のほうが女子よりも租が重かったので、女子と戸籍を偽り、脱税しようとする知恵者もいたようです。

 これによって、公田は次第に荒廃、それに伴って国税の収入も減少していきました。

 

 奈良時代になると、人口が増加し、新たに貸し与える口分田は不足していきました。

 また、土地の条件が悪かったり、日照りや水害で収穫のない田は、あれたままになりました。 

 もちろん、政府はこうした状況を打破するための対策を立てました。

 722年、百万町歩開墾計画をたて、墾田(未開の土地をあらたに開墾した田)を増やそうとするも、成果は出ませんでした。

 それもそのはず、農民たちは自分達の口分田を運営するだけで精一杯です。そんな中で、新たに土地を開墾するなど、とても出来ません。この時代、チェーンソーとかトラクターのような機械はないので、荒れ地をまともな田にするには何年もかかります。

 

 農民たちに新たに田地を開墾させるには、どうしても、そのモチベーションを上げる必要がありました。

 そこで政府は723年、「三世一身の法」を発令しました。これは既存の溝地を用いて田を開墾した者には一生のあいだ、新たに溝池をつくり、田を開けば3代にわたって、その土地の私有を認めるという画期的な法律でした。

つまり、孫の代までその土地は私有地にすることが出来るようになったのです。

 人々は先を競って開拓したものの、国家の接収期限が近づくと土地の耕作を放棄してしまった。

なぜだろう。

 現在であれば、3世代といえば、相当長い期間に思えます。しかし、当時は寿命も短く、逆に今の中学生くらいになれば子供をつくる時代でしたので、3世代などあっという間に過ぎてしまいました。

要するに、割に合わない制度だったので、農民は耕すことをせず、開墾した田は荒れてしまいました。

 

 そこで政府は743年、ついに「墾田永年私財法」を発し、土地の私有を公認しました。身分により開墾地の面積制限があったものの、原則として土地は自由化されたのです。

 力のある貴族や寺院などは、口分田を捨てて逃亡してきた農民などを使って墾田を増やし、私有地をどんどん広げていきました。

 

 こうして大化の改新以来の政策だった「土地と人民は国のものとする」公地公民制が骨抜きになり、律令国家の基本が土台から崩れていきました。

 つまり、この墾田永年私財法は、本末転倒ともいえる法律で、逆に朝廷の首を絞めることになったのです。

詳しくは、次の平安時代で詳しく説明することにします。

 

つづく。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

参考文献

日本の歴史1  旧石器~平安時代          ポプラ社

オールカラーでわかりやすい 日本史         西東社

もう一度読む山川日本史       五味文彦=著 山川出版社

聞くだけで一気にわかる日本史   馬屋原吉博=著  アスコム

ブログのモチベーションが上がりません。

こんにちは。本宮 貴大です。

 

ブログのモチベーションが上がりません。

 

収益化も失敗しましたし。

 

もう30歳になってしまったし・・・。コンビニ店員です。

 

どうすればいいのでしょうか。

 

このまま日本史のブログなんかやってていいのでしょうか。

 

将来、作家になる夢はもうあきらめた方が良いのでしょうか。

 

将来が不安です。

情緒が全く安定していません。