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【マッカーサー来日】本当の悪夢はここからはじまった

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【マッカーサー来日】本当の悪夢はここからはじまった」というお話です。

 戦後の日本にはまったく主体性がありません。
 明治時代に誕生した大日本帝国のように曲がりなりにも主権国家として国を運営していたあの時の威厳が完全にありません。
 とにかく行き当たりばったりな政策が続き、その軸がブレブレです。
 戦後、日本は弱くなってしまったのです。

 アメリカの占領政策によって、戦後日本はアメリカに憧れ、アメリカの顔色をうかがい、アメリカに守ってもらい、アメリカに振り回され、アメリカで売れる工業製品ばかり作ってきました。
 そして2008年のリーマンショックでともに沈没しました。

 現在、トランプ政権下のアメリカは今後、世界的な地位をどんどん落としていくことでしょう。それとともに日本もどんどん落ちていきます。1985(昭和60)年の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて遠い昔の話。今はそんなことが嘘のように日本の経済は本当に弱体化してしまいました。

 なぜ、こうなってしまったのでしょう。
 ということで、今回から戦後日本史(現代史)の方に入っていきます。1回目から非常に暗いタイトルですが、GHQによる日本占領政策を見ていきたいと思います。

 

 1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、翌15日には昭和天皇の肉声が録音された玉音放送がラジオから流れ、日本国民は大東亜戦争が敗戦に終わったことを知りました。そして連合国による占領がはじまりますが、事実上、アメリカ1国の占領となりました。
 鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言受諾後に総辞職し、占領政策を受け入れたのは皇族の東久邇宮稔彦親王(ひがしくにのみやなるひこしんのう)による内閣でした。

 そして1945(昭和20)年8月30日、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が、厚木の海軍飛行場に、愛機「バターン号」で来日しました。

 そんな強気な態度で来日したマッカーサーでしたが、内心ではビクビクしていました。
日本軍の抵抗が予想以上に激しく、4年半にも及んだ死闘の末、アメリカも疲弊していました。
日本が降伏に応じたとはいえ、いつ復讐されるかわからない。二度と自分達に逆らえないように徹底的に叩き潰す必要がありました。
一方、そんな恐ろしく手ごわかった日本本土に上陸するのは、本当に勇気が要ることでした。
 彼はコーンパイプにサングラスという非常に威圧的な態度で来日することで精神的に優位に立とうとしました。まさに「本当は臆病ないじめっ子」そのものです。

「さぁ、あの時の屈辱を晴らすときが来た。ジャップめ、ざまあみろ。」

 マッカーサーは太平洋戦争時、南大西洋地域総司令官としてフィリピンのルソン島の戦いで日本軍に敗れ、7万人以上の部下を見捨てて、オーストラリアに亡命しました。
その時彼が残した言葉が「アイ・シャル・リターン(私は必ず戻ってくる)」でした。
しかし、見捨てられたバターン半島の兵士たちは士気を失い、次々に日本軍に投降し、捕虜となりました。そんな兵士たちが収容所に向かう途中、マラリア疲労に次々に死に、到着時には5万人余りにまで減っていました(バターン死の行進)。
「さあ、じっくりと叩きのめしてやる!」

マッカーサーハリー・トルーマン大統領からGHQ(連合国軍最高司令総司令部)の最高司令官に任命されていました。
天皇および日本政府の国家統治の権限は貴官に従属する。その範囲に関しては日本側からいかなる異議も受け付けない。」
として米政府からマッカーサーは絶大な権限を与えられていました。GHQとは、ポツダム宣言の執行のためにつくられた組織で米英ソ中仏など主要戦勝国をはじめ11か国で構成される「極東委員会」の下に設置されていました。
マッカーサーの任務は日本の民主化であり、

マッカーサーがやろうとしたのは、日本の「民主化」という名の「弱体化政策」でした。

来日したマッカーサーは、その日、横浜のホテルニューイングランドに宿泊し、GHQの仮本部を横浜関税ビルに置きました。
そして翌9月2日、東京湾内に碇泊していた戦艦「ミズーリ号」上で行われる降伏文調印式に立ち会うのでした。その碇泊位置は、92年前の1852年、ペリー率いる4隻の軍艦が来日し、その旗艦「ポーハタン」が停泊したのと同じ緯度・経度のところでした。
さらに、ミズーリ号の甲板には2つの星条旗が掲げられていました。1つは真珠湾攻撃がされた時のワシントンのホワイトハウスに掲げられていた48星の「星条旗」で、もう1つは1853年のペリー率いる艦隊の旗艦である蒸気船「サスケハナ」号に掲げられていた31星の「星条旗」でした。(ペリーは1952年と53年の計2回来航しています。)

マッカーサーはわざわざ博物館からペリー来日当時の「星条旗」を持ってきていたのです。
『かつて日本は開国を迫られた際、ペリーから「開国しなければ、江戸に向かって大砲を撃つぞ。」と恫喝され、やむを得ず開国に応じた。』
現代の日本人は、そう思ってきました(思わされてきた)。しかし、実際はそうではありません。
そんな「ペリー恫喝外交伝説」はマッカーサーによって植え付けられたのです。
アメリカは日本と戦う運命にあったのだ。」
「巨大なアメリカ、小さな日本」
こんな構図で日本に徹底的に劣等感を植え付けようとしたのです。

調印式には日本とアメリカをはじめとした連合国の代表が出席し、日本を代表して出席したのは、天皇と政府代表の外相・重光葵(まもる)、軍部代表の陸軍参謀総長梅津美治郎(うめづよしじろう)が出席しました。
梅津は、二・二六事件ノモンハン事件の時のように今回も、後始末を担当しました。

重光はサインにあたり「奴らのペンなど使えるか。おい!ペンを貸せ。」と、自らの書記官の万年筆を借りたといいます。降伏前は「和平派」であった重光だったが、やはり敗戦のくやしさがあったようです。
日本にとってこれ以上屈辱的なことはありませんでした。

さて、ミズーリ号での降伏文書調印式に立ち会ったマッカーサーはその後、皇居前の第一生命ビルにGHQ本部を移しました。
天皇よりも偉い‘ダグラス様‘の誕生です。
私達は8月15日で戦争そのものが終わり、9月2日のミズーリ号での調印式で大東亜戦争は終わったと思っているが、トルーマンマッカーサーは占領というのは依然といて戦争の継続であり、日本政府がどのようなふるまいをしようともそんなことにかまう必要はなく、マッカーサーの意向に反するような行動は全て潰してしまってよいと考えていました。
ここからGHQによる本格的な日本占領政策がはじめていきます。


ということで、次回は占領軍による日本の民主化政策を見ていくことにしましょう。

以上。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
本宮貴大でした。それでは。
参考文献
やりなおす戦後史 蔭山克秀=著 ダイヤモンド社
昭和史を読む50のポイント  保阪正康=著   PHP
子供たちに知らせなかった 日本の「戦後」 皿木喜久=著 産経新聞出版
嘘だらけの日米近現代史  倉山満=著  扶桑社新書124
教科書よりやさしい日本史  石川晶康=著   旺文社

【どう違う?】ヒロシマとナガサキ

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【どう違う?】ヒロシマナガサキ」というお話です。
 今回は太平洋戦争終盤に広島と長崎に投下された原爆について、その違いを見ていきたいと思います。
 まず、原爆とは、核兵器のひとつであり、核兵器とは、核分裂の連鎖反応によって放出される膨大なエネルギーを利用して、爆風や熱放射などの作用を破壊に用いるもので、非人道的な兵器とされています。

 広島・長崎への原爆投下は、人類史上、唯一の核兵器による‘大虐殺‘ですが、広島と長崎にはそれぞれ異なった原爆が落ちました。以下の表はその違いをまとめたものです。

ヒロシマ ナガサキ
コードネーム リトルボーイ ファットマン
全長 約3m 約3.25m
重さ 約4トン 約4.5トン
直径 約0.7m 約1.25m
主体 ウラン235 プルトニウム239
爆発威力(TNT 換算) 1万5千トン 2万1千トン
爆撃機 エノラ・ゲイ ボックス・カー
投下日時 1945年8月6日 1945年8月9日
同市の人口 約35万人 約24万人
死者数 約14万人 約7万4000人

 御覧のとおり、広島には「ウラン235型」、長崎には「プルトニウム型」と異なる原爆が落とされました。
 アメリカは原爆の人体に対する影響を実験したいために2つの異なる原爆をそれぞれ落としたのです。
 原爆を投下しなくても日本が降伏すると知りながら、アメリカは実験にために無辜の市民を狙って大量残虐を実行したのです。
 広島・長崎が狙われた理由は、軍事施設の有無ではなく、地形と当日の天気が実験に適していただけに過ぎません。

 広島に投下された原子爆弾リトルボーイと呼ばれ、ウラン235を使った小型なもので火薬爆弾1万5千トンに相当するものでした。ウラン235を二つに分け、爆薬を爆発させた勢いで両方を衝突させ、臨界を生み出す、この臨界から、強力な核分裂が発生する仕組みです。
 一方、長崎に投下された原子爆弾はその容姿からファットマンと呼ばれ、プルトニウム239を使ったもので火薬爆弾2万1千トンに相当するものでした。プルトニウムを球状に構築し、爆発で圧縮させて臨界を生む仕組みになっていました。長崎のファットマンは広島のリトルボーイよりも1.5倍の威力がありました。しかし、長崎の方が被害が少ないのは、長崎市は山に囲まれた地形で、山によって熱線や爆風が遮られたためとされています。
当初、アメリカは陸軍造兵廠や工場が立ち並ぶ福岡県の小倉に投下する予定でした。しかし、当日の小倉市内の上空が厚い雲で覆われており、目視による投下が不可能と判断した「ボックスカー」は急遽、長崎に投下したのです。

 1945(昭和20)年8月6日、広島市は晴れ渡り、夏の暑い1日が始まっていました。中国地方最大の都市である広島市は、意外にも、まだ空襲を受けていませんでした。
 この日の広島は午前7時9分に出た警戒警報が解除されて、防空壕から出てき人々が、通勤や通学にとりかかり、町は再び動き出しつつありました。
そこへ飛来する1機のB-29爆撃機
 これを単なる偵察機だと考えた広島市は特に警報を出すこともありませんでした。
 しかし、同機は広島市内へ侵入し、産業奨励館(現・原爆ドーム)のほぼ真上に来た時、大型爆弾を1個投下した。次の瞬間、空中に強烈な閃光がほとばしり、凄まじい衝撃と高熱が市街を覆いました。
 午前8時15分、人類初となる核兵器が使用されたのです。
 広島市に投下された原爆はリトルボーイと呼ばれるもので、当日午前6時8分にマリアナ諸島テニアンから発進したB-29爆撃機エノラ・ゲイ」号から投下されたものでした。
エノラ・ゲイの名前の由来は、搭乗員のポール・ティベッツ大佐の母親の名前からきています。)
リトルボーイは火薬爆弾(TNT換算)にして1万5千トンに相当し、その破壊力が広島市の上空で炸裂。凄まじい爆発と発生した大火災で、多くの人々の命が瞬時に奪われました。
 爆心地から半径2キロ以内が焼失し、人々は影を壁などに焼き込んで形跡もなくなった人もいました。市内中心部は重傷を負って助けを求める人々で溢れかえり、あたりには黒焦げの死体が散乱。生き延びた人々も、苦しみながら息絶えていきました。
「イタイ・・・・アツイ・・・・」
「ミズ・・・・ミズヲクダサイ・・・・」
「シニタクナイ、シニタクナイ・・・」

 築城から350年以上を経た歴史溢れる広島城も倒壊しました。
 さらには家族の消息を尋ねて捜し歩いた人々が市内を彷徨ううちに放射能を取り込み、入市被爆者となってしまいました。

 広島市は市政も軍も機能が麻痺し、完全に潰滅し、文字とおり焦土と化しました。
 広島の原爆による被害は、現在でも正確な数字はつかめていません。当時の広島市の人口が35万人であったのに対し、1945年暮れまでに14万人がなくなったとされています。

 その3日後の8月9日午前2時50分、やはりマリアナ諸島テニアン島を1機のB-29爆撃が離陸しました。その名はB-29爆撃機「ボックス・カー」号であり、ファットマンと名付けられたプルトニウム爆弾を抱えていました。
(ボックス・カーの名前の由来は、本来操縦するはずだったパイロットのフレデリック・ボックからきています。)
 当初、攻撃予定日は8月11日でしたが、10日以降、天候が崩れるとの予報が出たため、2日繰り上げられました。
 そして午前11時2分、人類史上2発目の核兵器長崎市松山町上空に投下され、炸裂した。アメリカ軍は広島の原爆から間髪入れずに2発目の原爆を長崎に投下したのです。
 爆心地付近は秒速360mの爆風が吹き荒れ、半径1キロ以内にいた人や動物はほぼ即死。当時の長崎市の人口約24万人のうち、7万4000人が死亡。その後も犠牲者は増え続け、現在は12万人超とされています。

 両市の潰滅は政府や軍上層部に衝撃をもたらしました。
 大都市がたった1機のB-29からの1発の爆弾で潰滅的打撃を受けたのですから当然です。これはそれまでの空襲の常識を根底から覆されたもので、全く防ぎようもなく、政府も軍上層部もただ困惑するだけでした。

 非戦闘員である女性や子供までも無差別に虐殺した非人道兵器・原爆。しかし、当時のアメリカ大統領のハリー・トルーマンは、「原爆投下は戦争終結を早め、米兵のみならず、多くの日本人の命も救うことが出来た歴史的最高の出来事であった」と主張しました。
 一国の大統領の発言とは思えません。
 また、8月9日の長崎への原爆投下に際しては「ゲダモノと接するときは、ケダモノとして扱わなければならない」と日本人に対する蔑視と嫌悪をうかがわせる発言もしています。
 そこには原爆投下に対する謝罪はおろか、後悔すらも感じられない。
 この頃の日本には、もはや戦う力も気力も失っており、講和路線に傾きかけていました。
 それに「ダメ押し」の無差別大量虐殺かつ非人道兵器による爆撃がされたのです。
 戦争を終結させることが目的ならば、2度目の長崎投下は必要なかったのではないか。これなら世界に先駆けて開発された原爆の威力を試す実験だったと取られても、仕方がないでしょう。
 原爆投下とは、理性と失ったアメリカの暴走行為なのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著       アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則     太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争  半藤一利=著       幻冬社
日本の戦争解剖図艦        拳骨拓史=著       X-Knowledge
日米の教科書 当時の新聞で比べる 太平洋戦争        辰巳出版
太平洋戦争 通説のウソ      大日本帝国の謎検証委員会=編著  彩図社
子供たちに伝えたい 日本の戦争  皿木喜久=著      産経新聞出版

【硫黄島陥落】なぜ米軍は日本本土に上陸出来なかったのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【硫黄島陥落】なぜ米軍は日本本土に上陸出来なかったのか」というお話です。
今回は、太平洋戦争末期、日本軍が敢闘したの3つの島の戦いを見ていきながら、なぜ米軍は日本本土に上陸出来なかったのかについて見ていきたいと思います。
1. ペリリュー島の戦い
2. 硫黄島の戦い
3. 沖縄の戦い
それぞれ順番に見ていきます。

 開戦以来、日本はハワイを除く太平洋の島々を占領していきました。しかし、これが仇となって日本軍はそれらの占領地に兵力を分散配備して守らなければなりませんでした。
 対するアメリカ軍は兵力を集中して島に攻撃出来たため、「飛び石作戦」が成功し、一歩ずつ日本本土に近づいていくことが出来ました。
 1943(昭和18)年2月にガダルカナル島が陥落、5月には北方のアリューシャン列島のアッツ島で守備隊が玉砕、7月にはキスカ島も守備隊は脱出したものの、米軍に占領された。
 同年11月にはギルバード諸島のマキン・タワラ島が陥落。翌1944年2月にはマーシャル諸島のクェゼリン島、そしてブラウン環礁の守備隊も玉砕しました。
 そして同1944年7月には大正時代から委任統治領であったサイパンを含むマリアナ諸島も陥落しました。
 さすがに日本軍も島の防御態勢を練り直す必要性に迫られました。
 米軍による島の攻略法は以下の通りです。
空襲を仕掛ける→艦砲射撃を仕掛ける→野砲を仕掛ける→敵が怯んだとこで海兵隊を上陸させる。
 タラワやサイパンの防衛戦では水際撃退作戦が取られていましたが、上陸前の米軍による空襲や艦砲射撃が激しく、水際での撃退は全て失敗に終わっていました。そこで日本軍は山岳地帯の洞窟などを利用し、長期持久戦に持ち込む作戦に出ました。

 ということで今回は、そのような自然の要塞を利用して日本軍が敢闘した太平洋戦争末期の3つの島の戦いを見ていきたいと思います。

フィリピン防衛の準備を整えるために、ペリリュー島の日本守備隊は1日でも持ちこたえるために洞窟に陣地を構築し、徹底抗戦をしました。これにアメリカ軍は予想外の長期持久戦を強いられ、大きな損害を出してしまうのでした。

まず、ペリリュー島の戦いですが、以下は日米両軍の兵力とその損害を比較したものです。

日本 アメリ
総員 11,000 48,740
戦死者 10,695 1,749
戦傷者 446 8,010
捕虜 202

 まず、特筆するべきは日本軍の総員に対する戦死者数です。日本軍は全滅するまで戦い続け、対するアメリカ軍も約5倍の兵力をもちながら、戦傷者を多く出しました。戦死者よりも戦傷者が多いということは医療行為や担架で連れて帰る必要もあるため、悪く言えば、足手まといが増えるので不利になるのです。アメリカ軍は占領には成功するも、苦戦を強いられる結果となったのです。

 サイパンテニアンを占領し、グアムも奪回したアメリカ軍は1944年11月24日、パラオ諸島ペリリュー島も占領した。
しかし、このペリリュー島の戦いでは米軍も多くの人的損害を出してしまいました。
アメリカ軍は当初、「こんな小さな島は4日もあれば占領出来る」と豪語していました。
確かに、ペリリュー島は南北9キロ、東西3キロ足らずの小さな島ですが、当時、東洋一と呼ばれた日本軍の飛行場があり、フィリピン防衛の防波堤でもありました。したがって、ここを米軍に奪取されれば、ペリリュー島はフィリピン爆撃の重要な航空基地となってしまいます。
そこで中川州男大佐率いる日本守備隊は、米軍上陸に備えて島の中央山岳地帯の洞窟を利用して強固な防衛戦を構築することにました。
ペリリュー島の日本守備隊は水際撃退作戦には出ず、米軍が上陸後、海岸線から100mほど迫ったところから砲撃を開始しました。その結果、米軍の上陸第1波を撃破することに成功させました。
それでも米軍は圧倒的な数で島に上陸し、次々に日本軍の防衛線を玉砕させていきました。
しかし、中川大佐が築いた山岳地帯を陥落させるのは容易ではありませんでした。中川大佐の戦術は、昼間は要塞である山岳地帯の洞窟に隠れ、夜になると米軍陣地を襲撃するというものでした。
対する米軍は戦車をバリアにしつつ、火炎放射によって洞窟内を焼き払い、日本兵を焼き殺す作戦に出ました。
それでも日本軍は同1944年11月24日に玉砕するまで戦い抜き、生存した日本兵の中には終戦まで戦い抜いた者もいました。
対する米軍はペリリュー島の占領を完了させたことで、同島の飛行場から容易にフィリピンへと航空機を送り込むことが出来るようになりました。しかし、日本軍の予想外の抗戦により、大きな打撃を受けることとなったのでした。

硫黄島でも伝統の水際撃退作戦をやめ、洞窟陣地に立てこもり、出来るだけ長い期間アメリカ軍を釘付けにし、本土上陸までも時間を稼ぐ作戦が取られました。日本軍の神出鬼没で至近距離から攻撃を受けた米軍は、太平洋戦争で唯一、日本軍を上回る戦傷者を出し、苦戦を強いられたのでした。

次は硫黄島(いおうとう)の戦いです。まず、日米両軍の兵力とその損害を比較したものです。

日本 アメリ
総員 22,000 110,000
戦死者 18,370 6,821
戦傷者 21,825
捕虜 1,023

大東亜戦争アメリカ軍が反攻に転じて以降、唯一アメリカ軍の戦死傷者が日本軍のそれよりも多かった戦いがありました。それが硫黄島の戦いでした。ここでも、特筆するべきは日本軍の総員に対する戦死者数です。日本軍は全滅するまで戦い続け、対するアメリカ軍も5倍の兵力を持ちながら、多くの戦傷者を出し、苦戦を強いられる結果となりました。

1944年6月、小笠原兵団の指揮官として硫黄島に赴任した栗林忠道中将は、ペリリュー島の中川大佐同様に、島全体を要塞化して米軍の進攻を近距離から迎撃する方法を取りました。
日本守備隊は天然の洞窟を利用して地下に陣地を築き、兵士たちはシャベルやつるはしをふるい、それぞれの陣地と陣地をつなぐ連絡の開通作業を行いました。
しかし、硫黄島はその名通り、洞窟内のあらゆる場所から硫黄や亜硫酸ガスが吹き出す危険な島で地下20mから30mもの地下道を四方に掘ることは容易ではなく、5分以上連続して作業することは出来ず、作業中に倒れたり、病気になったりした者もいました。土木機械や資材、水や食糧・医薬品も絶対的に不足し、米軍の空襲も続くような悪条件でも兵士たちは作業を続けました。
栗林中将も兵士たちを鼓舞し続けます。
「我々の目的は米軍を撃滅することではない。米軍をこの島に釘付けにし、米軍の本土上陸を1分でも1秒でも遅らせることが目的だ。その際、この自然の要塞は必ずや我らの味方となってくれると信じて疑わない。」
栗林中将はこの作戦の途中、中将から大将へと昇進しました。栗林大将はサイパン島の玉砕のような万歳突撃をするのではなく、あくまで陣地の死守を命じており、1日でも長く、米軍を硫黄島に留める戦術が徹底させました。
硫黄島の戦いとは、本土決戦の準備が整うまでの時間稼ぎのための戦いだったのです。

1945(昭和20)年2月19日、アメリカ軍海兵隊硫黄島に上陸しました。上陸に先立って行われた空襲と艦砲射撃によって硫黄島の日本軍は全滅したはずだと米軍は考えました。
ところが、日本軍は息を潜めて潜伏しており、ぞくぞくと米軍が上陸し、海岸線から100m地点に到達した時点で、突然迎撃を始めました。
不意を突かれた米軍は日本軍の猛攻を浴び、上陸から5日目にして5000人の死傷者を出してしまいました。
2月23日、多くの犠牲を出しながらも、米軍は擂鉢山(すりばちやま)を占領しました。6人のアメリ海兵隊員が星条旗を立てようとしている瞬間の写真は非常に有名です。

以降、日本軍の戦いはゲリラ戦となりました。擂鉢山占領後も日本軍は激しい抵抗を続けたのです。
日本軍は完成こそしなかったものの、全部で18キロにも及んだ地下道に身を隠し、神出鬼没で米兵に襲い掛かった。それを米兵が追撃しようとすると、日本兵はまた地下に隠れてしまう。
所在の掴めない日本兵の攻撃に米兵は大いに苦しめられました。
これに対し、米軍はM4シャーマン戦車を前面に押し立てて、火炎放射器を使って、洞窟内を焼き払い、日本兵を焼き殺す作戦に出ました。これによって多くの日本兵が焼き殺され、運よく生き残った者も、食糧や水もない洞窟に取り残されるという結果になりました。
それでも日本軍は洞窟内に息を潜め、隙あれば、米兵に襲い掛かった。
「一人十殺!それまでは絶対に死んではならない。」
この栗林大将の信念に基づき、日本軍は敢闘したのです。
しかし、物量に勝る米軍に日本軍はしだいに追い詰められていき、そして同年3月25日、日本軍は最後の突撃を試みて、全滅した。
この日、栗林大将も陣頭に立ち、突撃するも、彼がその後どうなったかは不明です。一説によると、拳銃で自殺したといわれています。
いずれにしても、日米の1カ月間におよぶ死闘の末、米軍はようやく硫黄島の占領を完了させ、硫黄島は米軍の太平洋最大の航空基地となり、日本本土はB-29以外にも多くの航空機が飛び立ち。米軍の本土空襲はさらに激しさを増していくのでした。

本土決戦を遅らせるために、沖縄でも地下壕に潜んで1日でも長く抵抗を続ける作戦が取られました。しかし、そんな日本軍に沖縄県民を保護する余裕はなく、多くの犠牲者を出してしまうのでした。

そして、日本本土唯一の決戦場となった沖縄の戦いです。以下は両軍の兵力とその損害を比較したものです。

日本 アメリ
総員 約116,400 約548,000
戦死者 約107,000 約14,000
戦傷者 約72,000
捕虜 10,755

ペリリュー島硫黄島に比べ、ケタ違いの被害が出ています。しかし、これは日本軍人の犠牲者であり、民間人を含んでいません。沖縄県民も約94,000人が戦闘に巻き込まれて命を落としたとされています。

フィリピンでの戦いが続いている間、台湾と九州の間に位置する沖縄でも防備が進められていました。司令官の牛島満中将も、少ない兵力でアメリカ軍を沖縄に長く釘づけにする持久戦を取りました。
対する米軍は、空母16隻を基幹とする機動部隊が牽制のために西日本を空襲し、すぐあとに結集した1700隻にもおよぶ大船団が沖縄に上陸しました。アメリカではこれを太平洋戦争最大の上陸作戦であったと評しています。

しかし、日本軍も極めて強固な陣地を構築しており、アメリカ軍は艦砲射撃と戦車隊で攻撃するも、陣地を突破出来なかった。しかし、5月に入ると、日本軍は一気に劣勢に立たされ、どんどん追いつめられていった。それでも抗戦を続けたが、6月中旬には限界に達してしまいました。
さらに、沖縄戦では特攻作戦(菊水作戦)が繰り返されました。100機、200機と出撃した特攻機は、敵空母から飛び立った戦闘機や嵐のような対空砲火で大半が撃墜されながらも、敵艦隊に突入していきました。4月には戦艦「大和」も9隻の巡洋艦駆逐艦とともに沖縄に向けて出撃したが、翌日、米軍機の激しい猛攻に遭い、撃沈されました。
沖縄戦に関しては別の記事でもご紹介したいと思います。

沖縄戦に目途がついたアメリカ軍は九州そして関東へと上陸する作戦を立てました。しかし、これまでの日本軍の予想以上の激しい抵抗にあった米軍は本土決戦を行った場合の犠牲を懸念するようになり、その作戦を先送りにしました。これによって日本側に講和を選択するまでの時間的余裕が出来、本土決戦を幻の作戦とすることが出来たのでした。

こうして沖縄制圧にも目途がついた1945年6月、米軍は本土決戦を残すのみとなりました。しかし、硫黄島や沖縄での日本軍の抵抗が予想以上に激しく、死傷者を大勢出した米軍の中には、本土決戦を行った場合の犠牲を懸念する声が強まりました。
アメリカの統合参謀本部議長のレーヒ提督は言いました。
「すでに日本の主要都市は爆撃している。そこに人命と経費の大損害を賭けてまで侵攻する理由はどこにあるのだろうか。」
海軍作戦本部のキング本部長も同調しました。
「地上作戦など行わずとも、日本を降伏させることが出来るはずだ。」
しかし、これに反対したのが、マッカーサー大将でした。
「日本を包囲して孤立させ、爆撃で日本を屈服させることは人命の損失は最小だが、戦争を長引かせる危険性がある。九州を攻撃し、航空基地を設置し、陸海空の統合兵力によって関東に攻め入るのだ。しかし、天候の関係上、作戦実行は11月とするのが最適である。」
このマッカーサーの主張によって、アメリカ軍は九州侵攻作戦(オリンピック作戦)と関東侵攻作戦(コロネット作戦)が立てました。
大変強気な発言をしたマッカーサーですが、内心はビクビクしていました。建前上は、天候の関係で先送りされた本土上陸作戦でしたが、本音のところはアメリカ軍も躊躇していたのです。
「日本との戦いは全滅させるまで終わらないだろう。奴らはたとえ人口が半分になろうとも抗戦してくるかも知れない。特攻隊も次々に突っ込んでくる。一体どうなってしまうのか想像もつかない。」
オリンピック作戦の攻撃予定日は1945(昭和20)年11月1日とされ、6月18日、陸海空の3軍の最高首脳が集まった会議でトルーマン大統領が承認しました。
しかし、トルーマンは開発中の原子爆弾によって日本を降伏させることに期待をかけており、コロネット作戦に関しては保留するよう命じました。
対する日本軍も、アメリカ軍の侵攻は梅雨シーズンが終わってから九州に上陸し、そのまま関東にも上陸すると予想しており、本土決戦にむけて準備を進めていくのでした。
こうして日米両軍が覚悟した本土決戦作戦でしたが、同1945(昭和20)年8月15日に日本が降伏したことによって本土決戦は発動されることなく、幻の作戦となりました。
歴史にイフは禁物ですが、もし本土決戦が起きていたとしても、日本軍に勝機はなかったでしょう。
この頃の日本本土では小銃さえもそろえることが出来ず、航空戦力も多くが未熟なパイロットで、物資弾薬も集まらず、米軍に望むような一撃を与えることなどほとんど不可能でした。
そういう意味では、日本が本土決戦など選択せずに、目を覚まして降伏を選択し、国家再建に望みをつないだことは確かに正解だったといえるでしょう。
今回紹介した硫黄島や沖縄の戦いで手酷い損害を受けた米軍が本土上陸を先送りしたことで、日本が降伏に踏み切るまでの時間的な余裕が出来た。
そういう意味では、硫黄島や沖縄で米軍の進攻を必死で食い止めてくれた人達こそ、本当の英雄と言えるでしょう。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
歴史群像シリーズ 決定版 太平洋決戦 7 「比島決戦」  Gakken
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則   太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著     幻冬社

【レイテ沖海戦】なぜ連合艦隊は壊滅したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【レイテ沖海戦】なぜ連合艦隊は壊滅したのか」というお話です。

 レイテ沖海戦といえば、太平洋戦争の決戦と呼ばれています。今回もストーリーを展開していきながら、レイテ沖海戦の経過や、連合艦隊はなぜ潰滅したのかについても見ていきたいと思います。

夜間、高高度からの戦果確認は高い技量と経験が必要になります。台湾沖航空戦では搭乗員が未熟だったため、大誤報の大戦果を報告してしまいました。これに踊らされた陸軍は急遽、レイテ島で決戦に挑むことを断行。そんな陸軍を支援するべく海軍もレイテ沖で米軍の上陸を阻止するのでした。

 1944(昭和19)年7月18日、サイパン島が玉砕しました。これによって日本本土がアメリカ大型爆撃機B29の空襲圏内に入ったことで、事の重大性に気づいた重臣グループが東条英機内閣を総辞職に追い込みました。
 そして東条に代わって、新たに首相になった陸軍大将の小磯国昭は「比島(フィリピン)は大東亜戦争の天王山」と述べました。
 つまり、次の主戦場はフィリピンになるのではないかと予想がされたのです。それに伴い、同月、陸海軍は力を合わせてアメリカ軍の反攻に対抗する捷号作戦を計画しました。
 「捷号作戦」とは日本とその周辺をいくつかの区画に分け、敵がその作戦区域に侵攻してきたところを、陸海軍の総力をあげて叩く決戦計画です。それは4つの作戦に分かれており、捷一号作戦はフィリピン、二号作戦は台湾・沖縄。三号作戦を本土。四号作戦は北海道で展開を予定しました。

 1944(昭和19)年10月10日、アメリカのハルゼー中将率いる第38任務部隊が、空母艦載機によって沖縄や台湾の空襲を行いました。これはマッカーサー軍のフィリピン攻略を支援するためのもので、世に言う台湾沖航空戦です。
 これを受けた海軍の連合艦隊司令部は敵空母撃滅の好機ととらえて、海軍航空隊を出撃させ、台湾沖で行動していた米機動部隊を攻撃するよう命じました。

 海軍航空隊は1944(昭和19)年10月12日から15日にかけて九州南部や沖縄、フィリピン・ルソン島などから延べ650機が出撃し、第38機動部隊に昼夜にわたって総攻撃を開始しました。
戦場で戦う搭乗員からはその戦果報告が続々と送られてきました。
「撃沈、敵航空母艦11、戦艦2他。撃破、航空母艦8隻、戦艦2隻他。航空機撃墜112機」
 これはアメリカ機動部隊全滅に匹敵する数字で、連合艦隊司令部は狂喜しました。
 しかし、翌16日、連合艦隊司令部は戦果を再検討したところ、先の大戦果は過大であり、敵航空母艦を5~6隻は撃破出来たものの、撃沈した敵艦は1隻もありませんでした。
 これは戦果確認にあたった搭乗員の未熟さゆえのもので、日本機動軍機による火柱や至近弾による水柱を敵艦撃沈と判定するなど誤認が相次いだためです。攻撃が簿墓から夜間に行われたのも誤認の原因となりました。
一方、日本側の損害は甚大で、出撃した650機のうち未帰還機312機、帰還したうち300機が飛行不能となるなど、後のフィリピン決戦で使うべき航空機を大量に消耗してしまいました。
「捷号作戦」の基本構想であった「航空決戦」はここに崩壊してしまったのです。

しかし、連合艦隊はこれを隠蔽した。そして何よりも戦果が欲しかった連合艦隊司令部では、搭乗員の「幻の大戦果」をそのまま大本営海軍部に伝え、それは大本営発表として国民に報道されました。
久々の大戦果に国民は熱狂しました。そして連合艦隊天皇陛下から嘉賞の勅語を賜りました。
後々になって、海軍は先の戦果は誤報であることに気づくも、国民が士気を落とし、海軍から離れていくのを恐れ、海軍はあえて戦果の訂正を行いませんでした。
それに天皇からも勅語を賜っている。今さら戦果は誤認だったなど言おうものなら、海軍の権威は失墜してしまいます。

10月17日、荒れ狂う嵐に紛れて、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍約6万人がフィリピン沖にその姿を現し、翌18日にはレイテ湾に突入しました。
これに対し、「幻の大戦果」を鵜呑みにしていた陸軍は、急遽、ルソン島に主力部隊を温存する方針を転換して、レイテ島での一大決戦を挑むことを断行しました。日本軍は「捷一号作戦」の発令です。
しかし、これが「フィリピン防衛戦」という長く悲惨な戦いになるのでした・・・・・。
海軍は、国民はおろか陸軍にさえ戦果の訂正を行いませんでした。結局、日本海軍は最後まで国益よりも、戦争に勝つことよりも、省益を優先したのです。

戦艦「武蔵」が撃沈されたシブヤン海海戦(24日)、「大和」の主砲が火を噴いたサマール島沖海戦(25日)、西村艦隊が全滅したスリガオ海峡海戦(24日~25日)、囮となった小沢艦隊が奮闘したエンガノ岬沖海戦(25日)などがあり、この一連の海戦をレイテ沖海戦と言います。

 陸軍のレイテ決戦を海上から支援するべく海軍は米軍のレイテ上陸を阻止する作戦を立案しました。
 海軍の立てた作戦は、すでに航空機をほとんど失っている小沢治三郎(おざわちさぶろう)率いる空母機動部隊が囮(おとり)となって米機動部隊をフィリピン北方に引き付け、その間に戦艦を中心とする遊撃部隊がレイテ湾に突入して、敵の上陸作戦を阻止しようというものです。

 レイテ沖海戦では残っていた空母は米機動部隊を北方に誘い出す囮として、生き残った艦がレイテ湾のという算段である。
 レイテ湾に突入する部隊は、それまで出番のなかった戦艦や重巡を3つの艦隊にわけ、それぞれがレイテ湾を目指し、米輸送船団と地上部隊を砲撃する戦法となりました。兵力を分散させることで敵を攪乱しようということです。
 1944(昭和19)年10月22日、栗田武男(くりたたけお)中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下で構成される遊撃部隊第1部隊及び第2部隊はボルネオ島ブルネイを出撃しました。
 少し遅れて、西村祥治(にしむらしょうじ)中将率いる戦艦「山城」以下で構成される遊撃部隊第3部隊もブルネイを出撃しました。さらに志摩清英(しまきよひで)少将率いる遊撃部隊も沖縄を出撃し、西村艦隊を支援するカタチでレイテ湾を目指しました。
 栗田中将率いる第1・第2部隊はフィリピン北方のシブヤン海からサマール島を通るルートを、西村中将率いる第3部隊はスリガオ海峡を通り、南側から突入するルートを通りました。

 24日、栗田率いる第1・第2部隊はシブヤン海アメリカ空母から飛び立った戦闘機や急降下爆撃機雷撃機によって5回も大空襲を受けました。シブヤン海海戦の勃発です。巨艦「大和」「武蔵」が標的とされ、20本の魚雷と10発以上の爆弾を受けて「武蔵」は沈没した。
「大和」は魚雷こそあたらなかったものの、爆弾が数発命中した。1発が全部甲板を貫通して爆発、大量の海中が浸水したが、後部に海水を注入させバランスをとり航行を続けた。
 太平洋戦争は日本海軍航空隊による真珠湾攻撃で幕を開けたが、「航空主兵論者」だった山本五十六の戦法は即座に真似され、圧倒的な物量と生産力を持つアメリカ海軍は日本をはるかに上回る空母機動部隊を完成させていました。巨大戦艦など‘床の間の飾り‘と皮肉った山本の持論通り、「武蔵」は活躍出来ずに撃沈されてしまったのでした。
 そんなシブヤン海海戦で「武蔵」を失いながらも、栗田艦隊はレイテ湾を目指すのでした。

 一方、栗田艦隊のアメリカ機動部隊を北方に引き寄せる囮任務を担った小沢機動部隊は24日の段階で、ハルゼー大将率いる正規空母群をフィリピンのはるか北方におびき寄せることに成功していました。ハルゼー大将はこれが日本艦隊の主力であると錯覚し、攻撃をそちらに向けました。アメリカ主要艦隊は日本の秘策に引っ掛かったのです。

 25日午前0時、サンベルナルジノ海峡を通過し、サマール島沖を南下していた栗田艦隊は、明け方の6時25分、サマール島東方にてアメリカ空母部隊と遭遇した。
 栗田艦隊は、ただちに追撃態勢に入ったものの、敵空母部隊は撤退する構えで、駆逐艦のみが応戦してきました。サマール島沖海戦の勃発です。
 この海戦で、「大和」が誇る46センチ砲が初めて火を噴きました。しかし、栗田が遭遇したのは、ハルゼー率いる正規空母群ではなく、護衛空母群でした。正規空母群と勘違いした栗田中将は、潰滅を狙って執拗な攻撃を仕掛けるも、結局は逃げられてしまいました。

 ちょうどその頃、栗田とは別経路でレイテ湾に向かっていた西村艦隊は、スリガオ海峡で敵艦隊に待ち伏せを受け、ほぼ壊滅した。(スリガオ海峡海戦
 これを受けて西村艦隊の支援を担当していた志摩艦隊は、すぐに反転し、帰還した。

 一方、囮任務を担った小沢機動部隊もエンガノ岬沖海戦で奮戦したものの、空母「瑞鶴」「翔鶴」「千代田」「千歳」の4隻すべてを失いました。ここに日本海軍の空母機動部隊は壊滅したのでした。
そして、サマール沖海戦での追撃を打ち切った栗田艦隊はレイテ湾に向かい、米軍も日本艦隊のレイテ湾突入を覚悟しました。

「武蔵」を失い、小沢機動部隊の4空母を犠牲にしてまでお膳立てした決戦の地・レイテ湾まで80㎞の地点に迫りながら栗田武男中将率いる第1・第2部隊はレイテ湾突入せずに反転、北方に進路を変えました。栗田の「謎の反転」は、現在でも理由が不明です。いくつか推測もされていますが、いずれにしても作戦は大失敗に終わり、連合艦隊は事実上潰滅しました。

 レイテに急ぐべきだった栗田艦隊は、サマール島沖海戦を戦い、10月25日午後12時55分、ようやくレイテ湾まで80キロの地点に到着しました。
 あと1時間も走れば「大和」が誇る46センチ砲が届くという地点です。

しかし、栗田中将は突然、「突入中止、反転して北にむかう」と命令しました。
「長官、逃げるのですか」
「長官、血迷うな、レイテはあっちです。」
幕僚たちはと怒声を飛ばした。
 栗田はさきほど戦った空母部隊がハルゼー率いる機動部隊の一群であると信じ切っており、沖に出て艦隊決戦に挑もうとしたのです。
 それに栗田中将は、あらかじめ北方至近距離に強力な敵機動部隊がいるという電報を受け取っていました。しかし、この電報の発信者は今日でも発信者不明である。

 結局、栗田艦隊はレイテ湾を目前にして北に進路を変えました。しかし、敵の空襲を受け続け、機動部隊も発見出来ず、遂に栗田中将は追撃を諦め、艦隊を帰途につかせた。
連合艦隊はこの「謎の反転」の報告に驚いた。しかし、「決戦の見込みなしなら撤退せよ」とその行動を追認しました。

 ここにレイテ沖海戦は終了しました。

 この戦闘で日本海軍は戦艦3隻、空母4隻、重巡6隻、軽巡3隻、駆逐艦8隻を喪失し、生き残った艦も多くが損傷しており、惨敗に終わってしまいました。
 対してアメリカ艦隊は軽空母と護衛空母を各1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻を失った程度で主力艦隊はほぼ無傷のままでした。

 敗因は、航空機の絶対的な不足と、各艦隊の組織的な連携や通信の不備による状況把握が上手く出来なかった点が大きいとされています。そこに栗田の「謎の反転」が起きたことで、「捷一号作戦」は失敗に終わったのでした。

 栗田はなぜレイテ湾突入を放棄して反転したのか。その理由は未だにわかっていません。

 戦後、米国戦略爆撃調査団の質問に対し、栗田は以下のように答えています。
「狭い湾内では艦隊の動きが窮屈で、十分な戦果が得られない。それよりも外海で強力な艦隊と戦った方が良いと思った。」
 また、作戦打ち合わせのさい、連合艦隊司令参謀の神重徳大佐が、このような二者択一を求められる場合、「敵主力艦隊攻撃」を優先してよいと言質を与えていたとも伝えられています。
 いずれにせよ、このレイテ沖海戦日本海軍は事実上潰滅し、二度と艦隊同士の決戦による戦局打開の機会が与えられることはありませんでした。

この後、レイテ島での決戦を挑んだ陸軍は終わりなき戦いを強いられるのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
歴史群像シリーズ 決定版 太平洋決戦 7 「比島決戦」  Gakken
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
太平洋戦争「必敗」の法則   太平洋戦争研究会=編著  世界文化社
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著     幻冬社

【サイパン陥落】絶対国防圏はなぜ崩壊したのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【サイパン陥落】絶対国防圏はなぜ崩壊したのか」というお話です。

絶対国防圏を決めるにあたって、またしても陸軍と海軍が対立。戦線を縮小し、兵力の集中化を図る陸軍と、戦線を維持し、前線での艦隊決戦に固執する海軍が互いに妥協して何とか決まったものの、その守りを固めるよりも早く米軍が進撃し、絶対国防圏はあっさりと崩壊してしまったのでした。

 1941(昭和16)年12月に開戦した大東亜戦争は1943(昭和18)年を転機として徐々にアメリカ側の有利に傾き始めていきます。日本は同1943年2月にガダルカナル島を失陥します。
 その後、アメリカ軍は中部ソロモンのレドバ島、ニューギニアのナッソウ島への上陸作戦を開始。対する日本の守備兵力は劣勢で次々にアメリカ軍に追い詰められていき、ニューギニアのラエ方面も絶望的となりました。
 そして同1943(昭和18)年5月には、アリューシャン列島のアッツ島、同年8月には同じくキスカ島も失陥したことで、いよいよ日本は不利な情勢に立たされることになりました。

 こうした米軍の本格的な反攻が始まると、日本軍は作戦の見直しを余儀なくされました。広がりすぎた戦線を整理・縮小し、戦争を遂行するうえで必ず守らなくてはならない範囲を設定し、そこに強力な布陣を敷いてアメリカ軍の進攻を迎え撃つ作戦です。
 大本営は1943(昭和18)年9月25日、「今後採ルベキ戦争指導ノ大綱」を策定し、ここで決められたのが、絶対国防圏です。絶対国防圏とは、絶対に死守しなければならない要域のことですが、その範囲は千島、小笠原、マリアナ諸島、内南洋(中西部)及び西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏とされました。
 そんな絶対国防圏を決定するにあたり、またしても陸軍と海軍で意見が割れ、多くの議論が戦わされました。
 陸軍はすでに広がりすぎた太平洋方面の戦線を縮小するべきと主張していました。
カロリン諸島及びマリアナ諸島は捨て、比島(フィリピン)及び日本本土の防備を固めるべきだ。」
 しかし、海軍は前線での艦隊決戦で雌雄を決することに望みを捨てていませんでした。
「カロリン・マリアナ海域での艦隊決戦は75%の勝算がある。ここで米艦隊を撃破し、戦局の転換を図るべきだ。」
 一方で海軍の意見も一理ありました。特にマリアナ諸島サイパン島を米軍に占領されれば、日本本土が米軍の空襲圏内に入ってしまうからです。

 大本営の陸軍部と海軍部は戦況検討会を開き、合同の図上演習を行い、互いに妥協点を探り合いました。
 陸軍はトラック島より東の島々は防衛不可能と判断し、これより後退してフィリピンを含む南方方面に兵力を集中させたいと主張。
 しかし、海軍はトラック島以東の放棄に強く反対しました。

 そこで折衷案のカタチで決まったのが、海軍が主張したギルバード諸島、マーシャル諸島は外されたものの、トラック島は内南洋(中西部)という表現で絶対国防圏に含まれることとなりました。

 こうして決められた絶対国防圏の防備を強化するために、兵力は主に満州から抽出され、ニューギニア方面(南東方面)においても戦艦「大和」や「武蔵」を含む第2艦隊を派遣されました。しかし、輸送船が途中で米潜水艦に撃沈されるケースが多発し、兵力の補強は思うように進みませんでした。
 そこで、大本営は「概ね十九年中期を目途とし米英の侵攻に対応すべき戦略を確立」するとしました。

 しかし、米軍の反攻は予想以上に早く、1944(昭和19)年2月上旬までにはギルバード諸島やマーシャル諸島の大部分が米軍の手に落ちることになりました。絶対国防圏の圏外であったギルバード諸島のタワラやマキン、クェゼリンなどの将兵は撤退せず、玉砕するまで戦いました。
 この結果、次は絶対国防圏の要衝となる中部太平洋マリアナ諸島カロリン諸島に米軍はやってくると予想されました。
 そこで海軍は、すぐさま中部太平洋方面に兵力を最優先させることに決定。比較的戦況が落ち着いている南西方面(マレー・蘭印)から航空部隊を引き抜き、南方方面への兵力補充も3月いっぱいで打ち切ることにしました。
 このように絶対国防圏とは、日本の国力にあったものというよりも、大本営が地図を広げ、一方的に線を引き、そこを絶対国防圏と称したものに過ぎませんでした。
 さらに「概ね十九年中期を目途とし~」という戦況を無視したあまりにスローな対応で、戦略態勢の確立を待たずに絶対国防圏は崩壊を始めたのでした。


サイパンに上陸した米軍の進攻に日本守備隊は激しく抵抗しました。それは攻撃精神の欠如を理由にアメリカ陸軍の師団長が解任され、アメリカ陸海軍の間に対立を引き起こしたほどでした。しかし、太平洋戦争の勝敗を決した南洋の死闘は日本軍の玉砕によって終焉したのでした。

 日本から2200キロ離れた中部太平洋マリアナ諸島中部太平洋マリアナ諸島は、サイパン島テニアン島グアム島といった数々の島で構成されています。
大正時代から日本が委任統治領として治め、多くの移民者たちが生活を営んでいました。
 日本本土への直接爆撃が可能な距離にあるマリアナ諸島は、きわめて重要な太平洋の要衝であり、先述通り、大本営はこの島を絶対国防圏の最前線と位置づけ、防備には絶対の自信を見せていた。しかし、米軍は日本軍の予想以上の大兵力で、1944(昭和19)年6月15日、マリアナ諸島サイパン島に上陸してきました。
 日本軍も海岸一帯に防御陣地を築き、海岸で撃退しようとするも、アメリカ軍の激しい空爆と艦砲射撃で造り始めたばかりの防御陣地はあっさり破壊されてしまいました。それでも日本軍は精鋭の落下傘部隊や戦車部隊を含む主戦力を投入した。しかし、アメリカの圧倒的な大砲や戦車、さらには航空攻撃の威力によって粉砕され、後退を始めました。上陸部隊は最終的に7万人となり、迎え撃つ日本軍は約4万3000人だった。

 日本軍の頼みは急行する連合艦隊のみでした。

 連合艦隊の主力第1機動艦隊は、マリアナ諸島へ急行しました。
 アメリカの第58機動部隊は空母は大小15隻、搭載航空機900機にのぼり、対する日本側の空母は大小9隻、搭載航空機は450機と戦力で劣っていましたが、航続距離の長い日本軍機の特性を利用して先制攻撃するアウトレンジ戦法で挑みました。
 しかし、アメリカ軍は最新式のレーダーで攻撃隊の接近をキャッチし、最新式の砲弾で日本軍機を叩き落としてしまいました。

 以上のようなマリアナ沖海戦の敗退で、サイパンの救援は不可能となり、孤立することとなりました。

 米軍の強力な攻撃に押されながらも、日本軍の守備隊も勇敢に戦った。特に「死の谷」と呼ばれた地点での日本軍の抵抗は凄まじく、中央の歩兵第27師団は3日間、一歩も進むことが進むことが出来ませんでした。

 戦闘開始から10日目の6月24日、地上戦の指揮を執っていたホーランド・スミス海兵中将は、同師団長ラルフ・スミス陸軍少将を「攻撃精神の欠如」を理由に、更迭する事態にまでなってしまった。
 アメリカでは作戦途中での解任や更迭は普通のことですが、陸軍の師団長が管轄違いの海兵隊の指揮官によって解任されるのは、初めてのことでした。
 とにかく、米陸海軍の間に抗争を引き起こすほど日本軍の抵抗は激しいものでした。

 だが7月に入ると、奮戦虚しく、日本軍は兵力の大半を失い、島の端へ追いつめられていきました。アメリカ軍の優勢は絶対的で、もはや風前の灯でした。このとき、3万人の民間人も軍と共にいたが、彼らもアメリカ兵の投降勧告を拒否し、崖から飛び降りたり、毒薬や手榴弾を使うなどして、次々に自ら命を絶っています。

 7月6日、司令官の将校たちは遺書を残して自決した。その中には中部太平洋方面艦隊司令長官の任に就いていた南雲忠一中将の姿もありました。

 7月7日、日本軍守備隊は最後のバンザイ突撃を行い、サイパンは陥落した。

 こうしてサイパン、グアム、テニアン等のマリアナ諸島を米軍が占領したことにより、B-29による日本本土の大部分への攻撃が可能になったのでした。

 

 サイパンの日本軍が玉砕したという報を受けてから11日後の1944(昭和19)年7月18日、東条英機内閣が総辞職します。
 しかし、東条自らが責任を取って辞めたというよりも、総理大臣経験者で構成される重臣グループから「東条やっぱダメだろう・・・。」と反発が起き、倒閣運動で追いつめたものでした。
 その中でも中心となったのが、海軍大将の岡田啓介でした。岡田は太平洋戦争終結の道を探ろうとしない東条内閣を倒すために、まず嶋田繁太郎海軍大臣を辞めさせる画策をしました。
 後任の海相を送らなければ、内閣は総辞職しなければならない。
 サイパン陥落後、天皇側近で内大臣木戸幸一が、東条に天皇の意向として嶋田海相の辞任と重臣入閣の必要性を伝えた。東条は仕方なく、海相の辞任を認め、ほかの大臣を重臣に入れ替えることにした。
 東条が辞めさせる大臣の一人に挙げたのが、商工大臣の岸信介でした。それを知った岡田は「辞めるな」と岸を説得した。岸も東条に見切りをつけており、岡田に同調した。
 重臣入閣候補者の一人であった米内光政も入閣を拒否。こうしておよそ2年9カ月続いた東条内閣は総辞職に追い込まれました。
 そして7月23日、小磯国昭陸軍大将と、復帰した米内光政による連立内閣が発足しました。しかし、その後戦況が変わるわけではなく、戦争はなおも続いていくのでした。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
昭和史を読む50のポイント    保阪正康=著      PHP
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著      アルファポリス
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知識ゼロからの入門  太平洋戦争 半藤一利=著      幻冬舎

【インパール作戦】なぜ史上最悪の作戦と呼ばれているのか

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【インパール作戦】なぜ史上最悪の作戦と呼ばれているのか」というお話です。

 インパール作戦といえば、兵站を無視した無謀な作戦で、無益な犠牲を出した史上最悪の作戦と呼ばれています。まさに3無(無視・無益・無謀)な作戦であると。
しかし、太平洋戦争に限っていえば、ミッドウェー海戦ガダルカナル攻防戦、さらには後のレイテ沖海戦など「3無な作戦」はいくつもあります。
 それなのに、なぜインパール作戦だけが必要以上に無謀な作戦だったといわれているのでしょうか。
 今回は「インパール作戦はなぜ実行されたのか」、「インパール作戦はなぜ失敗したのか」、「なぜインパール作戦は史上最悪の作戦と呼ばれているのか」について見て行きたいと思います。

 インドは1858年以来イギリスの植民地でした。イギリスはマレー、シンガポール、インド(インパール)などで本国から派遣されたイギリス軍にインド兵を組み、英印軍として日本軍と戦いました。
 しかし、開戦後、日本の電撃戦は凄まじく、昭和17年5月までに日本陸軍は英領インドに併合されていたビルマからイギリス軍を駆逐し、占領しました。その最大の目的はインド北東部のアッサム地方からビルマ北部を経由して中国雲南省に向かう米英の援蒋ルートの遮断でした。つまり、日本と戦い続ける蒋介石政権(国民党政府)を支援する道を遮断し、蒋介石政権を屈服させ、日中戦争支那事変)を終息させることにありました。
 しかし、ミッドウェー作戦でアメリカに大敗北した日本は空母4隻を失ったことで、東インド洋の制海権・制空権をパワーダウンさせてしまいました。さらに翌1943年2月にはガダルカナル島を失陥、同年8月にはアリューシャン列島のアッツ・キスカ島、11月にはギルバード諸島のマキン・タワラ島を失陥。1943年から連合軍は太平洋方面において反攻に転じていました。

 こうした連合軍の動きに対抗するべく日本側も1943(昭和18)年11月5日、東京で大東亜会議を開催しました。これは大東亜戦争を勝利に導くためにアジア各国が団結して連合軍に徹底抗戦することを目指すものでした。満州国や中国南京政府ビルマ、タイ、フィリピンなどの首脳に加え、自由インド政府のチャンドラ・ボーズ首班が駆けつけた。

 インドの独立家であるボーズは10月、日本軍が英軍を追いやったシンガポールで仮政府の樹立を宣言、日本に強い信頼を置いていました。
ボーズの独立にかける一途な情熱は会議を主宰する東条英機首相や日本国民に強い感銘を与えました。
 大東亜共同宣言が採択された後、ビルマ代表のバー・モウが以下のようなことを発言しました。
「インドの独立なくしてアジアに自由はない。インドとビルマの共通の敵はイギリスである。インド奪回を提唱し、戦い続けてきた我が盟友チャンドラ・ボースこそが独立首相の最適任者である。アジア10億の民が団結することが約束された今こそ、インド独立の時である。」
 これを受けたチャンドラ・ボーズも4億人のインド国民軍を率いてイギリス軍に徹底抗戦することを宣言しました。
 しかし、これが悲惨な結果に終わる「インパール作戦」の呼び水となるのでした。

 

 ビルマ戦線においても連合軍の反撃が始まっていました。
 1943(昭和18)年10月、イギリス軍のウィンゲート旅団がインパールからビルマに侵入し、北の国境からビルマに侵攻してきました。
 一度は日本に敗北したイギリスが、その後対策を練り、ジャングルで日本軍に勝つ方法を編み出し、態勢を立て直したうえで、植民地を奪回するべく反撃に出たのです。

 これによって、日本側に浮上したのが、逆にインドに侵攻し、国境に近いインパールからアッサムまで攻略する作戦です。第15軍司令部の座に収まっていた牟田口中将は、イギリス軍の拠点であるインパールを攻略して「援蒋ルート」を断つと同時に連合軍の反撃拠点を抑える「インパール作戦」を立案しました。これによって、ビルマの守りを安泰にさせるうえ、英軍をインドに釘付けにし、英軍が太平洋方面に出てくるのを阻止しようというのです。

 しかし、この作戦には非常に強い反対論が出ました。
まず、インド方面の制空権が確保されていない。この状態での侵攻は自殺行為に等しい。東インド洋の制海権・制空権はミッドウェーの大敗北で空母と航空機が大量に喪失されたため、そのパワーバランスが崩壊しています。
しかも、国境を超えるには川幅600mのチンドウィン川と、標高2000mを超えるアラカン山系を超えなければならず、片道で200キロもある。さらに、これから雨季に入るため、激しいスコールにも襲われる。
第15軍の参謀長・小畑信良(おばたのぶよし)少将ら関係者は作戦に反対しました。最大の問題となったのは、補給体制でした。
「ラングーンから陸揚げされた武器や食糧をインパールまで届けるには鉄道も少なく、歩道も泥濘でいる。補給に難があるのは明白だ。」
これに対して牟田口長官は言いました。
「補給に関しては、ゾウや牛に荷物を運ばせ、用が済んだら、それを食べれば良い。」牟田口はこれを「ジンギスカン作戦」として自画自賛しました。
しかし、小畑中将は納得しませんでした。
そこで牟田口は小畑参謀長を更迭し、作戦を強引に推し進め、軍上層部へ進言してしまいました。
牟田口は作戦の必要性を熱心に唱えました。
ビルマ方面軍司令官・川辺正三、そして南方軍司令官・寺内寿一は、悪化する戦局を打開出来るかも知れないとして作戦を認可。そして大本営では陸軍参謀総長杉山元も寺内の願いならば聞かないわけにいかず、作戦を認可しました。
そして首相であり、陸軍大臣も兼ねていた東条英機も作戦を認可しました。
大東亜会議では自由インドのボーズが日本と共闘してイギリス軍を駆逐することを熱心に申し出ていました。大東亜会議の主催者で日本代表の東条としても、国家としてインド独立に協力しないわけにはいきません。
第15軍の主張する作戦ならば、インド独立運動を活性化させることが出来る。
東条はアッサムまでは認めないが、インパールまでの攻略なら許可するとした。
こうしてインパール作戦は正式に実行が決まりました。
作戦にあたるのは、第15軍麾下(きか)の第33、31、15の各師団です。
作戦実行に際して、第31師団の師団長・佐藤幸徳(さとうこうとく)中将は補給は必ず行うことを条件とし、牟田口もそれを了承したうえで、作戦は実行されました。

兵士が携帯した食糧はわずか3週間分のみ。長期戦などやる気は毛頭ありません。
「補給など心配いらない。イギリス軍は弱い。天皇誕生日(4月29日)までには作戦は全て完了するはずだ。」
1944(昭和19)年3月8日、日本軍の3個師団が進撃を開始しました。第33師団は補給が比較的容易な南側コースから北上し、インパールを包囲する。第31師団はインパールの北方にあり、イギリス軍の軍事拠点にもなっているコヒマを占領し、南下する。そして第15師団と合流し、南下を続ける。つまり、インパールを南北から挟み撃ちにしようという作戦です。
しかし、実際に攻撃を始めると、英印軍の屈強の抵抗に全滅の危惧を感じた第33師団は攻撃をしばしば中断し、牟田口司令官に作戦中止を具申するほどでした。
さらに、最も補給が心配された第31師団は国境付近にある川幅600mのチンドウィン河を渡ったさい、運搬兼食糧であった水牛のほとんどが流され、さらに険しい山道を進む中、水牛たちは次々に崖から落ちていきました。
牟田口のジンギスカン作戦はあっさりと頓挫したのです。

それでも佐藤中将率いる第31師団は4月中旬にはインパール北のコヒマを抑え、順調に作戦を遂行させていきました。しかし、まもなく事前の危惧通り、補給が途絶え、日本軍の動きは止まってしまいます。前線の将兵は弾薬も食糧も補給がないまま戦わされることとなった。
一方、イギリス軍は空中補給を受けて、余裕を持って戦うことが出来た。
佐藤は抗議した。
「約束が違う。弾薬も食糧もない状態で作戦を続けられるはずがない。」
だが、牟田口中将は、進撃が止まっているのは戦意不足によるものであると主張して、作戦の続行を命じた。
「弾がない、食い物がない、お前達それでも皇軍か。泣き言を言うな。それにジャングルに食べ物はいくらでもある。日本人は本来、草食なのだから。」
これに対し佐藤は答えます。
「正気とは思えない。上官らは現場の状況を知らなさすぎる。兵士達は飢えに苦しみ、戦闘意欲など既に失っている。場合によっては、師団長自らが独断で退却を命じることもありうる。」
そして6月1日、第31師団長の佐藤幸徳は補給のない状況での作戦継続は不可能であると判断し、独断でコヒマから退却を開始した。
これに対し、牟田口司令官は佐藤を解任。さらに第33師団長、第15師団長と次々に解任し、作戦続行を命じる異常事態となりました。

ビルマ方面軍の川辺正三司令官も「日本とインド両国の運命がかかっている大事な戦いである」と叱咤するも、補給不足は解消されませんでした。
そんな過酷な戦いが続くなか、第3飛行師団長の田副登中将が作戦の無謀さを上層部に再三訴えた結果、7月9日、ようやく撤退命令が出されたのでした。
しかし、英印軍の執拗な追討と、食料不足によって退却戦は地獄と化した。
退却中に約3万人もの将兵が戦死、戦病死した。なお、戦病死者数のほとんどは栄養失調やマラリア赤痢などで倒れていったといわれています。
その退却路には倒れた日本兵の屍が累々と連なり、白骨街道と呼ばれた。
インパール作戦の敗戦責任は追及されることはありませんでした。司令官の命令を無視して独断で撤退した佐藤中将は心神喪失として、軍法会議で無罪となりました。大本営は責任が軍中枢に及ぶことを恐れたのです。
これ以降、日本軍は、ビルマ戦線においても、イギリス軍や中国軍の攻勢に押されることとなるのでした。

今回ご紹介したインパール作戦は、史上最悪の作戦と呼ばれています。なぜ、史上最悪の作戦と呼ばれているのでしょうか。先述通り、この作戦はインドの独立を支援するために実行された作戦です。明確な大義が存在するのです。「日本がアジアの開放のために戦った」典型例と言えるでしょう。
連合軍、もしくはビルマやインドにそうした事実を隠したい勢力が存在するからなのではないでしょうか。インパール作戦を「史上最悪の作戦」とすることで、日本への懺悔精神をさらに強いものにしようとしているのではないかと感じられます。

インパール作戦は、行き当たりばったりな軍上層部が、悪化する戦局を打開する方法を模索している最中に牟田口長官から提案された作戦です。インド独立運動を活性化させ、英印軍をインドから駆逐する突破口になるとみたのです。
しかし、ずさんな補給計画により、日本軍は本来の戦力を発揮出来ず、さらには英印軍の空中補給作戦の確立や、戦力の増強によってインパール作戦は無益な犠牲を出して中止されたのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
決定版 太平洋戦争「絶対国防圏」の攻防6      Gakken
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
知識ゼロからの入門 太平洋戦争 半藤一利=著  幻冬舎
手に取るようにわかる 太平洋戦争  瀧澤中=文 日本文芸社

【マリアナ沖海戦】アウトレンジ作戦はなぜ失敗したのか

こんにちは。本宮貴大です。
この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
今回のテーマは「【マリアナ沖海戦】アウトレンジ作戦はなぜ失敗したのか」というお話です。
マリアナ沖海戦とは、一言でいえば、日本海軍が持てる海軍力を全て投入した戦いです。しかし、結果は大敗北。帝国海軍は作戦遂行能力を完全に喪失し、以後、米軍の一方的な攻撃を受け続けることになったのです。

1943(昭和18)年9月末、日本はアメリカをはじめとした連合国陣営の反攻を受け、アリューシャン列島のアッツ島キスカ島も失陥したことで、いよいよ日本は不利な情勢に立たされることになりました。
こうした戦況の悪化を受けて大本営は絶対に死守するべき領域として絶対国防圏を定めました。その領域は千島、小笠原諸島マリアナ諸島、中西部カロリン諸島を経てビルマに至る領域であり、日本が絶対確保するべき防衛線として取り決められました。
そして絶対国防圏の防備は翌1944(昭和19)年3月を目途に固めてくこととし、南東方面(ソロモン諸島ニューギニア)においても戦艦「大和」や「武蔵」を含む第2艦隊を派遣するなど戦線を極力持久させることも決定されました。

しかし、米軍の反攻は予想以上に早く、1944年2月上旬までにはギルバード諸島やマーシャル諸島の大部分が米軍の手に落ちることになりました。この結果、次は絶対国防圏の要衝となる中部太平洋マリアナ諸島カロリン諸島に米軍はやってくると予想されました。
そこで日本海軍は、すぐさま中部太平洋方面に兵力を最優先させることに決定。比較的戦況が落ち着いている南西方面(マレー・蘭印)から航空部隊を引き抜き、南方方面への兵力補充も3月いっぱいで打ち切りました。
日本海軍はマリアナ海域に全兵力を投入し、艦隊決戦を行うつもりです。

これに対して陸軍は意見しました。
「米軍の反攻が早すぎる。カロリン・マリアナは捨て、比島(フィリピン)及び日本本土の防備を固めるべきだ。」
しかし、海軍は譲りませんでした。
「カロリン・マリアナ海域での艦隊決戦は75%の勝算がある。ここで米艦隊を撃破し、戦局の転換を図るべきだ。」
海軍の意見も一理ありました。特にマリアナ諸島サイパン島を米軍に占領されれば、日本本土が米軍の空襲圏内に入ってしまうからです。
作戦は結局、海軍の意見でまとまりました。
この方針に従い、日本軍は中部太平洋方面における空母部隊の再建を急ぎ、同1944(昭和19)年5月末~6月中旬までには、ほぼ完了しました。
トラック島(カロリン諸島)とサイパン島マリアナ諸島)が米軍の空襲に遭ったのはその直後の6月13日のことでした。
これと同時に、小澤治三郎率いる第一機動艦隊が訓練地タウイタウイ島(フィリピン南西部に位置する島)を出撃、17日には最後の補給を終えて、フィリピン海東方水域への進撃を開始しました。
一方、アメリカ側は潜水艦から報告で17日の時点で日本艦隊の動向をつかんでおり、日本艦隊の接近の報を受けた米艦隊内でも日本との艦隊決戦に挑むべく、進撃するべきだとの意見が出ましたが、もし自軍が敗北した場合、サイパン沖の上陸船団が危険にさらされる可能性を考慮して決戦実施を諦め、空母部隊をサイパン付近の水域に留めて、接近してくる日本艦隊を迎え撃つ作戦が採られました。

1944(昭和19)年6月15日、米軍はサイパン島に上陸しました。日本軍としてはサイパン島を米軍に占領されると、日本本土が米軍の空襲圏内に入ってしまうため、何として阻止しなければなりませんでした。
そこで、日本海軍はありったけの海軍兵力を投入し、マリアナ沖で決戦に挑みました。以下は、マリアナ沖海戦に参戦した日米の戦力比です。日本軍は連合艦隊の総力を結集して米軍機動部隊に挑みます。主力は小澤治三郎率いる第1機動部隊で、錬成に錬成を重ねて準備した虎の子の航空部隊です。

日本 アメリ
空母 9 15
航空機 439 901
戦艦 5 7
重巡洋艦 10 8
軽巡洋艦 2 12
駆逐艦 29 67

日本海軍が兵力を結集したといっても、表の通り、日米のあいだには歴然とした差が開いており、日本は不利な状況に立たされていました。そこで小澤中将が用いた戦法がアウトレンジ戦法とよばれるものでした。
その戦法とは、航続距離が長い日本軍機の特性を活かし、敵の空襲圏外から軍機を発艦し、敵機動部隊に空襲をかけるというもので、味方の損害を極力少なくして、敵に大きなダメージを与えるというものです。
かつて「戦艦」対「戦艦」の戦いが行われていた時代、それは「大鑑巨砲主義」と呼ばれており、戦艦は大きく、頑丈で、射程距離の長い大砲を備えている必要がありました。これによって敵艦の大砲の届かない位置から砲撃し、自軍は損害を受けることなく、相手にダメージを与えることができました。
それを応用したのがアウトレンジ戦法で、実は戦前から検討がされていた戦法です。
不利な戦局を何とかここで打破し、形勢を逆転させたいところです。
そして同年6月19日早朝、実に44機に及ぶ策敵機が3段階に分けて発艦されました。ミッドウェー海戦での教訓が生かされているのです。
同月19日6時30分、多数の策敵機より敵艦隊発見の報告が送られ、小澤中将は7時25分、攻撃隊の発艦を命令しました。
その数は309機。合計4波に分かれての全攻撃隊の発艦が終了したのは10時28分のことでした。なお、この時点で日本艦隊の上空には米策敵機はおらず、アウトレンジ戦法は成功したかに思われました。

しかし、この頃すでに日本側の策敵機が米軍機に次々に撃墜されていました。
米軍は新開発の優秀なレーダーによって事前に日本の飛行機の動きを察知しており、索敵機を逃がさなかったのです。
これによって、索敵機による敵艦隊への攻撃隊の誘導がうまくいかない事態が起きてしまいました。ただでさえ遠くからの発艦で、なおかつ誘導機も僅かな状態。この結果、約3割もの日本攻撃機が米艦隊に接敵できないという事態が起こりました。
そんな中、何とか米艦隊に接近した日本攻撃隊も、レーダーによって70カイリ手前で待ち伏せしていた米軍のグラマンF6F戦闘機の餌食となり、次々に撃墜されていきました。

かろうじて敵空母の上空にたどりついた攻撃機も、米軍の猛烈な対空砲火を受けました。それは最新鋭の砲弾であり、目標に命中しなくても、熱を感知して爆発するVT信管付きの砲弾でした。
アウトレンジ戦法は最新鋭の軍備を備える米軍には通用しなかった。

この結果、アメリカ艦隊は空母2隻と戦艦1隻に軽微な損傷を受けただけで、航空機の損失も19機のみにとどまった。
一方、日本軍は航空機207機の損失を出すという大敗北を喫しました。さらに航空攻撃こそ受けなかった第一機動部隊の空母「大鳳」「翔鶴」も19日午後に米潜水艦の攻撃を受け、撃沈されました。
これを受けて連合艦隊司令部は「一旦退避のうえ、後に後図を策せ」と命令を出しました。
小澤中将率いる第一機動艦隊は決戦水域から撤退をしたのでした。
対する米艦隊は勝利を確信し、翌20日以降、日本艦隊の追撃を開始しました。その結果、日本は空母「飛鷹(ひよう)」と補給艦2隻が撃沈され、空母「瑞鶴」と「隼鷹(じゅんよう)」も損傷を受けた。
こうした米軍の追撃に小澤中将も黙って逃げるわけにもいかず、夜戦実施を命じるなど応戦を開始しました。
しかし、もはや航空戦力も61機まで減少しており、有効な艦隊作戦の実施も不可能な状態になっており、第一機動部隊はただ逃げるしかありませんでした。
翌21日、米艦隊はさらに追撃を試みるも、日本艦隊はすでに攻撃可能な水域から完全に離脱していました。このため、米軍は追撃を中止し、サイパン島で苦戦を強いられている上陸部隊の支援に向かいました。

マリアナ沖海戦は日本軍の完敗に終わりました。日本海軍が全力投入した海軍兵力は壊滅。連合艦隊はとうとう作戦遂行能力を喪失してしまったのでした。


マリアナ沖海戦の最大の敗因は、満足に訓練を受けていない未熟なパイロットが多く前線に出されたことにありました。この結果、グラマンF6F戦闘機に追い回され、さらに対空砲火による弾幕をかわすことも出来ず、ことごとく撃墜されるという憂き目に遭いました。あまりにあっけなく撃ち落とされる様を見て、米軍は「マリアナ沖の七面鳥撃ち」と評しています。

ミッドウェー海戦ガダルカナル島の攻防を経た頃には、日本軍のベテランパイロットの多くが戦死していました。
さらに、燃料や軍需物資も絶対的に不足しており、新たにパイロット達を訓練させる余裕もなく、そんな時間もなかった。
しかし、近年、問題はこれだけではなかったと指摘している学者もいます。
そもそも日本の「パイロット育成教育のあり方」に問題があったのではないかというのです。
例えば、海軍のエースパイロットであった坂井三郎(さかいさぶろう)という人物が零戦で得意としていた戦法として「左ひねり込み戦法」がありました。これは敵に追尾されたら、縦方向に大きくUターンすることで一気に敵機の後ろに回り、劣勢から優勢に転じるアクロバットな空中機動術です。
しかし、日本はこういったテクニックを軍部内で共有するわけでもなく、専ら個人技の範疇として、パイロットの技量に頼っていた。
日本軍は飛行機の操縦方法は教えても、空中格闘戦術や射撃術のようなテクニックを教えるようなことはしなかったのです。開戦当初は日中戦争を戦っていた日本軍が戦術や技量においてアメリカ軍パイロットより経験値が高かった。
しかし、戦況の悪化とともにベテランパイロットが次々に戦死していく。
一方のアメリカ軍はパイロットの技量に頼らず、誰もが習得・実践できる射撃マニュアルを作成していました。
そこには「敵との距離が離れている場合の攻撃方法」や「敵の真後ろ以外の至近距離での攻撃方法」など、それぞれのケースにおいてどうすればよいかパターン化して教育していた。こうした「マニュアルを暗記」さえしておけば、誰でもある程度の戦果を上げられるようにしていたのです。

そんな米軍は偵察機やレーダー艦が集めた情報を空母にある戦闘指揮所に集め、そこから全戦闘機に情報を共有するシステムが構築されていた。
一方の日本軍は、無線もレーダーも十分なものではなく、各戦闘機がおのおのの技量に頼って戦うという戦法をとっていました。

こうした用意周到なアメリカと、行き当たりばったりの日本が激突したのがマリアナ沖海戦だったのです。

つづく。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。
それでは。
参考文献
ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社
今さら聞けない 日本の戦争の歴史 中村達彦=著  アルファポリス
子供たちに伝えたい 日本の戦争 皿木喜久=著  産経新聞出版
5つの戦争から読みとく 日本近現代史 山崎雅弘=著  ダイヤモンド社