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【第一次世界大戦】なぜヨーロッパは2つの勢力に分かれたのか

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【第一次世界大戦】なぜヨーロッパは2つの勢力に分かれたのか」というお話です。

 

 本題に入るまえに、外交や安全保障におけるある法則をご紹介します。

 それは、「敵の敵は味方になる」という法則です。

 例えば、お互いに不仲で緊張状態にあるA国B国C国があったとします。

 ある日、A国B国に侵攻しました。A国の侵攻を受けたB国は当然、A国に宣戦布告しました。さらにA国C国にも侵攻しました。C国A国に宣戦布告します。

 B国にとっての最大の敵A国は、C国にとっての最大の敵でもあります。すると、A国という共通の敵を倒すためにB国C国は手を組むようになるのです。

 これが「敵の敵は味方になる」という法則です。これを踏まえたうえで、本題に入ります。

 

 第一次世界大戦は最終的に、ドイツ・オーストリアオスマン帝国を中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国が戦う構図になります。

 しかし、意外な事実かもしれませんが、イギリス、フランス、ロシアの3国は歴史的に非常に仲が悪いです。そんな3国がなぜ手を組んだのでしょうか。

 実は19世紀末~20世紀にかけて、3国にはドイツという共通の敵が現れるようになったのです。

 ということで、今回もストーリーを展開しながら、「なぜヨーロッパは2つの勢力に分かれたのか」について見ていきたいと思います。

第一次世界大戦の根本的な原因は、列強諸国による植民地問題と民族問題です。ドイツという共通の敵を倒すために手を組んだイギリスフランスロシアという共通の敵を倒すために手を組んだドイツ・オーストリアオスマン帝国。同じ目的を持つ国同士が手を組んだことで、連合国軍と同盟国軍という2大陣営が形成されたのです。

 第一次世界大戦の対立構図はどのようにして生まれたのでしょうか。なぜ世界は2つの勢力に分かれたのでしょうか。第一次世界大戦は、欧米列強の植民地拡大をめぐって各国が結んだ同盟関係や民族紛争によって対立構図が出来上がります。

 

 フランスとドイツは1870年の普仏戦争以来、すっかり犬猿の仲になりました。それまで、小さな国の集まりで、統一国家の体を成していなかったドイツは、18世紀にビスマルク率いるプロイセン王国が中心となってオーストリアを排除するカタチでドイツの統一が進みました。

 そんな新興国プロイセンを警戒したのが、フランスです。19世紀末になると、プロイセンとフランスによる普仏戦争が起こります。勝利したプロイセンは1871年、国王ヴィルヘルム1世がパリでドイツ皇帝に即位したことで、ドイツ帝国が誕生しました。一方、敗戦したフランス国内では反独感情が残る状態となりました。

 

 一方、オスマン帝国(トルコ)とロシアも古くから犬猿の仲でした。それは民族問題であり、ロシアの強い支配を受けているトルコ系民族を解放し、サマンカルドを都としたトルコ人の帝国を樹立するというパン=トルコ主義に基づいたものでした。

 

 19世紀末は帝国主義の時代でもあります。帝国主義とは一言でいうと資本主義社会が軍事力と結びついて、領土や植民地拡大を図ることです。当時の帝国主義国家は、イギリス、フランス、ロシア、オランダ、アメリカでが、やがて新興国・ドイツが加わるようになります。

 ドイツは帝国主義国家の中間入りを目指し、アジアやアフリカに植民地拡大を図ります。

イギリスはインドのカルカッタ、エジプトのカイロ南アフリカケープタウンをそれぞれ鉄道で結ぶ植民地政策を行い、海外進出の拠点としていました。これをそれぞれの都市の頭文字をとって3C政策と言います。イギリスはアフリカを北のエジプトから南の南アフリカに向かって縦断するように植民地を拡大していきます。

 これに対抗するべくドイツはバクダート鉄道の建設を進め、ベルリンビザンティウムイスタンブールバクダードを拠点として3D政策を展開しました。

 イギリスは勢いを見せるドイツを警戒するようになります。

 

 一方、フランスもイギリスに負けまいと本土に近いロッコアルジェリアからアフリカの植民地拡大を図ります。イギリスの縦断政策に対し、フランスは西のモロッコアルジェリアから横断するように植民地を拡大していきます。

 こうしたフランスの植民地政策を面白く思わなかったドイツは、フランス領・モロッコでフランスと支配権をめぐって2度の小競り合いをしています。(ロッコ事件

 

 アフリカ支配において、縦に領土を拡大するイギリス、横に領土を拡大するフランス、両国の交差地点となったのは、スーダンのファショダで、英仏両軍は対立。一時、一触即発の危機に陥りました。(ファショダ事件

 しかし、ここで両国にはドイツという共通の敵がいることが判明します。

「今は、イギリスとフランスが互いに争っている場合ではない。それよりも、ドイツという新興国をもっと警戒するべきだ。」

 英仏両軍はドイツの脅威に対抗するために事態を収拾。共にドイツと対立することを条件に友好関係を築きました。こうして「敵の敵は味方になる」という法則に従い、イギリスとフランスは手を組むようになったのです。

 さぁ、最初の第一次世界大戦の対立構造が出来上がりました。イギリス・フランスとドイツの対立構造です。

 

 同じ頃、東アジアでも動揺が起こりました。

 1894年、新興国・日本と老大国・清が戦争を始めたのです。(日清戦争)。戦争は新興国である日本の勝利に終わり、老大国であったはずの清の弱体化が世界に知れ渡り、列強諸国に領土をかじりとられるようになります。いわゆる「中国分割」です。

 フランスは東アジアへの進出をスムーズにするために、ロシアと同盟を組み、東アジアにおける利権を互いに認め合いました。このフランスの動きを警戒したイギリスは、東アジアの新興国・日本と同盟を結び、対抗します。これが1902年の日英同盟です。

 

 このように、アフリカではドイツを警戒して同盟を結んだイギリス、フランス。アジアではロシアとフランス、また、イギリスと日本の同盟関係が誕生しました。第一次世界大戦は日本を含めた列強諸国の複雑な同盟関係によって起きた戦争なのです。

 

 そして1914年、ボスニアの首都サラエヴォで起きたオーストリアの帝位継承者が暗殺される事件が起こります。これが第一次世界大戦の開戦のきっかけとなった有名な事件です。様々な民族が住み、互いに対立するバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれるほど政情不安定な地域でした。

 

 オーストリアは間もなく、セルビアに宣戦布告。ドイツは属国であるオーストリアに軍事的な支援を行うカタチで参戦します。

 

 しかし、一方のセルビアの後ろ楯であったロシアが軍を配備し、ドイツ・オーストリアを牽制しました。こうしたロシアの動きに対し、ドイツは先手を打つようにロシアに侵攻しました。

 するとオスマン帝国もロシアに宣戦布告。こうして「敵の敵は味方になる」という法則にしたがって、ドイツ・オーストリアオスマン帝国は手を結びました。

 さぁ、ここで、セルビアを支援するロシアと、オーストリアを支援するドイツとオスマン帝国による対立構造が出来上がりました。

 

 しかし、ここにきてドイツが致命的な失態をやらかします。なんと、長年犬猿の仲であったフランスにも侵攻してしまったのです。これによって、戦争は一気に拡大しました。「敵の敵は味方になる」という法則に従い、フランスは同盟を結んでいたロシアに近づきます。

「もはや、フランスとロシアの同盟関係は東アジアの植民地問題に限ったことではない。ここは手を組み、ドイツという共通の敵と戦おうではないか。」

 こうしてフランスとロシアは手を組むようになりました。

 さらにフランスと友好関係を築いていたイギリスもドイツに宣戦布告します。

 そして、ヨーロッパから遠く離れた日本も日英同盟に基づき、連合国軍側にて参戦します。

 

 さぁ、第一次世界大戦の対立構造が完成しました。イギリス、フランス、ロシア、日本を中心とする連合軍とドイツ、オーストリアハンガリーオスマン帝国を中心とする同盟国軍による対立構造です。

 第一次世界大戦とはもともと暗殺犯の母国セルビアオーストリアの2国間の問題でした。しかし、今回紹介したようなヨーロッパ各国の情勢が絡んで一気に拡大しました。当時の人達も、この戦争が後に「世界大戦」と呼ばれるようになるとは思わなかったでしょう。開戦直後の1914年7月、兵士達はクリスマスまでには家に帰れると思っていたようです。そのくらい開戦当初はヨーロッパの小国の小競り合いのようなものだったのです。

 戦争は結局、4年3カ月も続いてしまいました。短期決戦を目指すドイツ軍の作戦が失敗し、両軍が塹壕(ざんごう)を掘り進んでにらみあったことが、戦線の膠着につながったとも言われています。

 さらに、この対戦、従来の戦争とは大きく異なっていました。それは、国民全体を巻き込む総力戦に発展したことです。

 それまでの戦争は戦場で戦う兵士のみが衝突するもので、どこか紳士的で正々堂々とした「名誉ある戦い」の色合いが強かったです。しかし、今回の第一次世界大戦以降は、女性や子供も含めた一般市民が無差別に殺されるというとても悲惨で卑劣な戦いになってしまいました・・・。

つづく

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい世界史                   旺文社

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著 旺文社

ニュースがよくわかる 教養としての日本近現代史 河合敦=著 祥伝社