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【労働運動】日本の社会主義思想はどのように広がったのか【片山潜 他】

 こんにちは。本宮貴大です。

 今回のテーマは「【労働運動】日本の社会主義思想はどのように広がったのか【片山潜 他】」というお話です。

明治時代に入って日本は資本主義社会としてスタートしますが、その実態は労働者に過酷な労働を強いる酷いものでした。資本主義のひずみと言えます。労働者は社会主義という思想を後ろ楯に政府と対立するようになります。

 明治時代に入って、日本は産業革命を経験し、工場制手工業から工場制機械工業が次々に勃興しました。急速な資本主義社会の発展です。

 その結果、日常生活に必要な便利なモノがたくさん生産され、人々の生活は徐々に豊かになっていきました。

 しかし、物事には必ず、光と影が存在します。光が当たれば必ず影が出来るのです。人々の生活が豊かになる一方で、資本主義社会の発展は大きなひずみを生むことになりました。

 実は急速な資本主義の発達は、多くの労働者の犠牲の上に成り立っていたのです。そう、資本主義社会の発達にともなうモノの豊かさは資本家や実業家などの富裕層が享受しており、モノを生産する労働者は全く享受出来ずにいたのです。

 労働者は、低い賃金で長時間の過酷な労働に従事し、資本主義社会では「資本家階級」と「労働者階級」の主従関係(雇用者と被雇用者)で成り立っていますが、儲けを最大化したい資本家としては、労働者を出来るだけ安い賃金で長時間働いてもらいたいのです。

 また生活環境も衛生状態の悪い生活環境に置かれるなど劣悪な労働条件を強いられていました。このように資本主義社会が始まったばかりの当時の日本の企業は、全てブラック企業だったのです。

「おいおい。今日も12時間勤務だぜ。これで一週間連続だ。いつになったら休暇が貰えるんだ。全くコキ使いやがって」

「仕方ないさ。飯が食えるだけありがたいと思わないと」

「う~ん・・・・・そういうもんなのかな」

 このように1894年に勃発する日清戦争以前は、労働者同士の意識が成熟しておらず、労働運動は本格化しませんでした。

 

 ところが、1886(明治19)年に甲府の製糸工場で、100名あまりの女工が過酷で劣悪な労働条件に反対してストライキを起こしました。

 これは政府や資本家階級に大きな衝撃を与えると同時に多くの労働者に勇気を与えました。

「よくぞ。やってくれた。彼女らは全国の労働者を代表してストライキを起こしたのだ。我々も団結して労働条件改善を訴えるのだ。」

 これをきっかけに労働者の「労働者階級」としての自覚が芽生え始めます。さらに、ジャーナリストの横山源之助が描いた克明な記録『日本之下層社会』や、農商務省が実態を調査し、まとめた『職工事情』という報告書により、この時期、全国の労働者の過酷な生活状況が明るみに出ました。これにより、資本主義社会の弊害である労働問題に対して、社会の関心が集まるようになり、労働者が団結して賃金の上昇や労働環境の改善を求める労働運動は全国的にひろがっていきます。 

 ただ、全国に労働運動が広がるのは良いのですが、同時に理論的根拠を掲げる必要があります。闇雲にストライキを起こし、不平や不満を訴えるだけでは単なる暴動であり、より多くの人を共感させることは出来ません。大衆はそこまでバカではありません。

 しっかりとした理論的根拠を立てて、それに基づいた上で自分達の主義主張をする必要があります。

 そこで登場したのが社会主義という思想だったのです。これもやはり西洋からの輸入思想です。

「どうやら、西洋には社会主義という思想が存在するらしい。労働者の国を目指した理屈だそうだ。」

「労働者の国!?我々のための国ということか。どんな思想なのか早速調べてみようじゃないか。」

 西洋で資本主義の問題点を指摘したのは、19世紀のユダヤ系ドイツ人で経済学者のマルクスです。マルクスは、労働者は資本家から搾取されていることを指摘し、お金のある資本家は、どんどん儲けを増やし、毎月給料をもらう労働者は暮らすだけで精いっぱいです。

 資本主義社会では「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という性質があります。自由競争の資本主義は弱肉強食で、資本家のような強者には有利ですが、労働者のような弱者には不利に働く社会なのです。

 マルクスが書いた本に、彼の友人であるエンゲルスの序文を寄せた本に『共産党宣言』というものがあります。この本の中の最後の一文には「万国のプロレタリア団結せよ」というものです。プロレタリアとは労働者のことです。この言葉は、世界中の労働者を勇気づけました

 

 この時期になると、マルクスエンゲルスの著作がどんどん日本に入ってきて、若年層を中心に読まれました。当時は翻訳本などを出すと、すぐに政府や警察から摘発されます。しかし、英語が読める人も結構多かったので、社会主義思想は急速に浸透していきました。

 

 日本に広がった社会主義思想は、日清戦争以降、社会主義運動としてその勢いを増していきます。

1897(明治30)年にはアメリカから帰国した高野房太郎らが職工義友会を組織しました。高野が留学したアメリカには労働組合という組織が存在し、労働者を保護することを訴えている実情を目の当たりにしました。

 高野は「職工諸君に寄す」という一文を配布しました。

 これに共鳴した片山潜らが職工義友会に加わり、同年、労働組合期成会が結成されました。

 片山が中心となった労働組合期成会は、労働者を守る法律である工場法の制定を求めた組織で、その機関紙として『労働世界』が発行され、全国的に労働運動の呼びかけが展開されました。

 これ以降の明治30年代には、鉄工組合、日本鉄道矯正会、活版工組合など、当時の産業界を支える職業の人達がそれぞれ職種別に労働組合をつくっています。日本のプロレタリア(労働者)も団結したのです。

 

 1898(明治31年)には社会主義研究会という組織が生まれ、各地で集会や言論大会を始めました。

 資本主義に対立する社会主義は、反体制的な危険思想として政府は激しい弾圧を加えます。政府は資本主義の主役である資本家と手を結んでいます。その証拠が当時の議会制度によく現れています。1889(明治22年)年に大日本帝国憲法が発布され、翌年には第一回衆議院選挙が行われますが、選挙権があるのは、国に15円以上の税金を納めている満25歳以上の男性だけでした。

 そう、政府にとって資本家とは多くの税金を納めてくれる大切なスポンサーなのです。政府は資本家達の利益を優先するのは当然です。

 政府が「政治の支配者」ならば、資本家はいわば、「経済の支配者」なのです。支配者と支配者が手を組むことで、お互いの相乗効果が得られるのです。

 そんな資本主義社会を否定し、政府に盾つく社会主義の連中を弾圧する方法は実に簡単です。言論弾圧です。弾圧の王道中の王道です。要するに、「お前たち、集まるな」、「お前たち、情報を共有・拡散をするな」とするのです。

 時の総理大臣である山県有朋は、1900(明治33)年に治安警察法を発布。社会主義思想社の組織の結社や集会の禁止だけでなく、新聞などの情報ツールの発行を全て禁止するようにしました。

 

 しかし、作用が強くなれば、反作用も強くなります。これは物理の原則です。弾圧された社会主義思想はより一層勢力を増していきます。

 社会主義研究会を母体とした日本初の社会主義政党である社会民主党が1901(明治34)年に結成されました。その中心人物が『万朝報』という新聞記者をしていた幸徳秋水という人物です。幸徳を中心とした社会民主党は理想綱領として、貴族院廃止・普通選挙実現・8時間労働の実施などを謳いました。『万朝報』は当時の新聞社としてかなりの有力紙であり、多くの労働者の共感を呼びました。 

 

 第二次山県内閣が解散し、第四次伊藤博文内閣を経て、1901(明治34)年6月、桂太郎内閣が誕生すると、日露戦争の危機が濃厚になってきました。ロシアが三国干渉という実にしたたかな方法で日本が清国(中国)から獲得した領土を奪い取ったことで、日本国民のロシアへの反感が強まり、各新聞社は「ロシアとの一戦やむなし」と報じるようになりました。それに対し、幸徳や堺は『万朝報』を通じて依然として非戦論を唱えていました。

 

 ところが、それまで非戦論を説いてきた『万朝報』も一転して開戦論を報じるようになりました。これは社長の黒岩涙香(くろいわるいこう)の判断です。

 それでも幸徳と堺は、依然として非戦論を唱え、意見の不一致から幸徳と堺は『万朝報』を退社。代わりに平民社という組織をつくり、機関紙として『平民新聞』を発行して、非戦論を論じました。

 

 日露戦争終結した1905年、日本国内は戦争によって酷く疲弊していまいました。その損害は、戦費はもちろん、戦死者も膨大なものとなりました。日清戦争の戦死者が1万3千人なのに対し、日露戦争の戦死者は5万人に及びました。さらに前線で病に罹ったり、負傷したりして後に亡くなった人を含めると8万人にもなります。そのほとんどは職業軍人ではなく、町や村から召集された若い兵士達でした。夫や兄、弟、そして息子を失った遺族は大変苦しい生活を強いられました。その他にも増税国債の購入、寄付、軍馬などの財産提供で生活苦に陥った国民もたくさんいました。

                                    

 また、戦地から帰ってきた兵士達の素行の悪さは社会問題になりました。

「私は戦争で、両足を失った。こんな私を誰が雇うのだ。誰が面倒見るのだ。もはや絶望しかない・・・。」

 戦争による負傷兵の社会復帰は困難を極めました。政府は廃兵院という負傷兵の生活施設を設立するも大した効果は上げられませんでした。その結果、負傷兵の中には生活苦のあまり犯罪に走るものが続出しました。

 さらに、人を殺したことで、トラウマやPTSDを患った人達のケアも彼らは自暴自棄になり、生業を放り投げ、酒や奢侈にふける毎日を送るようになってしまった。

「戦争に勝ったはいいが、我々国民は不幸のドン底に陥れられたのだ。」

 

 人々は、日露戦争は資本主義の弊害だとして政府や国家に対する不信感を強め、社会主義に飛びつく人達が増えていきました。

 まもなく桂太郎内閣の支持率は急落。

 そして1905(明治38)年末、遂に桂太郎内閣は総辞職に追い込まれました。総理大臣を継いだのは以前から政友会が明治天皇に推薦していた西園寺公望でした。

 こうして1906(明治39)年、桂太郎内閣に代わって、西園寺公望が総理大臣に就任。西園寺内閣が誕生しました。

 西園寺首相は、社会主義思想に対する厳しい弾圧を加えた桂内閣の反省を受けて、社会主義をはじめとした反体制運動に対して寛容な姿勢を見せます。

「彼らを一方的に弾圧するだけでは、より大きな反発を招く。さらに、このまま資本家と労働者の対立が長引けば、国内の産業は非効率的となる。」

 これを機に社会主義勢力はさらに力を強めていきます。

 幸徳秋水は、高山潜や堺利彦らとともに同年、日本社会党を結成。たまたま起きた東京市電の電気料金の値上げに対して日本社会党は遂に暴動を起こしたのです。西園寺内閣はすぐに軍隊と警察を出動させ、鎮圧にあたりました。

 軍隊とは、外敵と戦うというイメージが強いですが、軍隊や警察の仕事は治安維持も軍隊の立派な仕事です。なので、国民が暴動を起こせば、容赦なく銃を向けます。これが国家権力というものです。これは現在の自衛隊もそうです。

 

 この頃、幸徳らを中心とした平民社は各地で演説を行い、「無政府主義」、「共産主義」を訴えました。

 このように勢力を増す社会主義者達に対し、危機感を感じた西園寺内閣は、警察を出動させ、各地の演説を中止させました。今回のは、暴動鎮圧ではなく、言論弾圧です。そして遂に日本社会党に対し、政府は解散を命じました。

 これに反発した多くの社会主義達は1908年暴動を企てて公園に集まりました。集まった社会主義者の特に若年層が多く、彼らは「無政府共産」という白文字を縫い付けた赤旗を掲げて行進し、革命歌を歌い、街頭で暴動をこしました。西園寺内閣はすぐに警察隊を派遣。暴動は間もなく鎮圧され、多数の社会主義者を検挙者しました。

 

 こうした赤旗事件を受けて、同年、新たに組閣された第二次桂内閣は、社会主義運動に対する取り締まりを一段と強化しました。そして、1910(明治43)年には幸徳秋水が処刑される大逆事件が発生します。

 この大逆事件をきっかけに第二次桂内閣は警察庁内に特別高等課特高)を設置し、社会主義運動を徹底的に弾圧する姿勢を見せました。やがて、国民の大多数は社会主義を危険思想とみなし、社会主義者達の活動は一気に衰退していきました。(冬の時代)

 

 一方で、1911(明治44)年に再度誕生した第二次西園寺内閣のもとで、遂に労働条件の改善を図る法律をつくりました。

「我が国の将来を考えた時に、資本家と労働者の対立をなくし、生産能率を向上・維持をしていく必要がある。労働者に対する社会政策的な配慮をするべきだ。」

 ということで、社会主義者達の念願だった工場法が制定されました。工場法とは、日本最初の労働者保護のための法律であり、少年・女性の労働時間の限度を12時間とし、深夜業が禁止となりました。

 しかし、適用条件は15人以上が勤務する工場に限られるなど、多くの中小の工場には適用されませんでした。また、その他にも多くの例外規定があり、欧米の労働者保護の水準からは程遠い不徹底・不十分なものでした。

 しかも、工場法の施工は5年間の猶予をおいた1916年からの施行でした。

 選挙権を持つ資本家階級の激しい反対を受けたのです。スポンサーである資本家階級の要求を政府は聞き入れないわけにはいかなかったのです。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

教科書よりやさしい日本史           石川晶康=著 旺文社

明治大正史 下                中村隆英=著 東京大学出版会

もういちど読む山川日本近代史         鳴海靖=著  山川出版社

学校が教えないほんとうの政治の話       斎藤奈美子=著 ちくまプリマー新書