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【大正デモクラシー】民本主義と天皇機関説の関係性とは

 

 こんにちは。本宮貴大です。

 この度は記事を閲覧してくださり、本当にありがとうございます。

 今回のテーマは「【大正デモクラシー民本主義天皇機関説の関係性とは」というお話です。

 明治時代は民権派参政権を求めて自由民権運動を展開し、政府と民間が全面対決をした時代でした。明治政府は1885(明治18)年に内閣制度を発足、1889(明治22)年には大日本帝国憲法を発布、そして1890(明治23)年には第1回衆議院議員選挙帝国議会が開かれ、日本の立憲体制が整えられました。

 しかし、それは、民権派が求めた民主主義とは程遠い天皇をトップとした薩摩・長州の出身者による藩閥政治と超然内閣による事実上の独裁政治でした。

 これに対し、民間人の不満は大正時代になって再度盛り上がります。衆議院も力を強めるようになり、議会と民衆が大きな力を持って民主主義を求め、藩閥政治や超然内閣を打倒する時代となったのです。世はまさに「大正デモクラシー」の時代です。

 

 ということで、今回の前半記事は、大正デモクラシーの理論的根拠となった2つの思想である民本主義天皇機関説はどのよのような関係性なのかをご紹介していきたいと思います。そして後半記事は、大正時代を通して展開された大正デモクラシーとは、政治や社会にどのような影響を及ぼしたのかを見ていきたいと思います。

民本主義とは天皇機関説が前提条件として存在することで初めて成り立つ思想です。天皇機関説藩閥政府などの専制政治を否定し民本主義普通選挙や政党内閣などの民主政治を推進する。そんな2つの思想が大正デモクラシーを理論的に支える思想となりました。 

 

民本主義

天皇機関説

天皇主権

天皇主権

吉野作造

美濃部達吉

民主政治を推進

専制政治を否定

普通選挙実現を目指す

藩閥政治を打破する

政党内閣を目指す

特権内閣を打破する

 大正時代を象徴する社会運動といえば、「大正デモクラシー」です。デモクラシーとは日本語訳では「民主主義」となりますが、大正時代も明治時代の自由民権運動のような国民の声を政治に反映させる参政権を求めた社会運動が展開されました。そのキーワードが、「第一次護憲運動」、「大正政変」、「米騒動」、「第二次護憲運動」です。

 

 そんな大正デモクラシーの理論的根拠となった2つの思想が東大教授で政治学を担当していた吉野作造が唱えた民本主義と、同じく東大教授で憲法学を担当していた美濃部達吉が唱えた天皇機関説があります。

 両者はどのような関係性があるのでしょうか。

 両者の共通点や違いから見ていきましょう。

 民本主義天皇機関説も目指すゴールは同じです。それはまさに「日本に民主主義の政治を実現すること」です。

 民主主義とは、国民が主体となって政治に参加するという意味ですが、そのためには、現在の日本国憲法のように主権は国民になくてはいけません。しかし、民本主義天皇機関説も主権は天皇であることを肯定しています。

 

 吉野の民本主義ですが、民主主義とは違うのでしょうか。

 吉野はデモクラシ―を「民主主義」とは訳さずに「民本主義」と訳しました。民主主義と訳してしまうと、国民に主権がある「主権在民」である必要があります。しかし、当時の大日本帝国憲法下では天皇に主権がある「主権在君」です。なので、吉野は天皇主権のもとで人民本位の政治を行うべきだとして民本主義と訳しました。民本とは本位からきているのです。

 民本主義では、天皇を主権としつつも、実際の政治をより民主主義的に行うようにするべきだと説きました。そのためには普通選挙の実現政党内閣の成立を目指す必要があると唱えています。政党内閣とは、選挙によって選ばれた国民の代表者が衆議院議員となって国民に代わって政治を運営することです。この政党内閣の主張は、多くの知識人に影響を与え、「政党内閣こそ最高の政治形態だ」とされました。

 

 一方の天皇機関説は、天皇主権を肯定しつつも、国家を1つの法人ととらえ、国会や裁判所、内閣などはそれを構成する機関であり、天皇はその統治権を行使する最高機関であるとしました。つまり、天皇とは神のような絶対的な存在ではなく、あくまで憲法上の地位のひとつであり、天皇は独断で政治を行うことは出来ず、その憲法に拘束されるとしました。

 このように天皇機関説とは、薩長藩閥政治超然内閣を打倒するために憲法の視点から攻めていく思想なのです。

 

 このように民本主義とは、民主政治を推進する思想であるのに対し、天皇機関説専制政治を否定する思想になるのです。

 すなわち、両の関係性とは、「破壊」と「創造」の関係と言えるでしょう。天皇機関説薩長藩閥政治や超然内閣を打倒(破壊)し、民本主義普通選挙や政党内閣の実現(創造)を目指すのです。

大正時代とは力を強めた議会や民衆のデモによって時の内閣が2回も倒される時代となりました。その上で政党内閣や普通選挙が実現されるなど大正時代とは政治的に非常に重要な時代なのです。

 

 さて、こうした2つの思想を背景に大正時代の民主主義を求めた社会運動はどのようにして展開され、どのように藩閥政府や超然内閣が倒されたのかを見ていきましょう。

 

 1912(明治45)年7月、明治天皇崩御されました。皇太子による即位式が行われ、年号も大正となり、あしかけ45年に及んだ明治時代が終わりました。

 この年、東大法学部の教授をしていた美濃部達吉が、『憲法講話』を発表しました。大日本帝国憲法について解説書としては、憲法製作者の張本人である伊藤博文による『憲法義解』という本がすでにありましたが、美濃部のこの本には伊藤とは異なる視点で憲法を解釈していました。その主張の中で最も有名なのが、天皇機関説だったのです。

 折しも、この年の末に陸軍の抵抗で西園寺公望の内閣が潰れ、桂太郎天皇から首相の大命が下ったとして3度目の内閣を組閣しました。しかし、桂太郎長州閥で陸軍のボスである山県の息のかかった人物で藩閥政治と超然内閣の典型でした。

 そんな桂に対し、衆議院立憲国民党犬養毅や、立憲政友会尾崎行雄らは「世論尊重の憲法政治を守れ(憲政擁護)」、「陸軍・海軍の軍閥薩長藩閥を打破せよ(閥族打破)」を掲げる運動を展開。世にいう第一次護憲運動がおこりました。

 そんな中、発表されたのが吉野作造民本主義でした。吉野は大日本帝国憲法の枠内でも、実際上の民主政治が可能であると主張しました。

 こうして藩閥政治や超然内閣を否定した天皇機関説に、政党内閣や普通選挙の実現を目指した民本主義が加わり、大正デモクラシーの理論的根拠の基盤が出来上がりました。美濃部の天皇機関説とは結果的に吉野の民本主義憲法の視点から支えた思想となりました。

 これに共感を覚えた民衆も護憲運動に参加します。民衆は国会を包囲するデモを展開、第三次桂内閣は成立からわずか53日で総辞職に追い込まれました。これを大正政変と呼びます。

 元老は桂の後任として、今度は薩摩閥で海軍のボスである山本権兵衛が選ばれました。国民はこれに不満を持ちますが、なんと桂内閣打倒の中心となった立憲政友会が自分達の政策を実現することを条件に山本内閣に協力することになってしまいました。

(元老・・・薩摩・長州の出身者を中心とする明治維新の功労者達のこと。当時は元老が総理大臣を任命していました。)

 これに対し、国民は大いに失望し、再び倒閣運動を展開します。そんな折、海軍の汚職事件(ジーメンス事件)が明るみにでてしまい、山本内閣は短期間で総辞職に追い込まれました。

 こうした事態を受けて、元老達は、仕方なく国民に絶大な人気があった大隈重信を首相に登用、第二次大隈内閣を発足させることで国民を納得させることに成功しました。

 

 第二次大隈内閣が成立した直後の1914(大正3)年、第一次世界大戦が勃発します。時の外務大臣である加藤高明は連合国側として参戦することを決めます。

 参戦した日本は1915年、まだ統一的な権力を確立していない袁世凱の中国政府に対し、二十一ヶ条の要求という極めて不平等な条約を突き付けました。

 このような強硬で露骨な姿勢に世論からの批判が殺到。これを受けた大隈内閣は1916(大正5)年に総辞職に追い込まれました。

 大隈内閣の次は、寺内正毅という人物が首相に就任します。しかし、この寺内もまた桂太郎の後継者の1人で長州閥であり陸軍の中心人物でした。

 寺内は元老の意を受けて組閣し、政党を無視した超然内閣と藩閥政治を行いました。

 しかし、1918(大正7)年になると、ロシア革命によって 日本もシベリアに兵を派遣することを決断します。このシベリア出兵に伴う需要増を見込んで米商人達が米の売り渋りを始めたために米価が高騰。民衆の不満が爆発して米騒動が起こります。これに対し、寺内内閣は軍隊を派遣して米騒動を抑え込もうとしました。

 しかし、これがかえって国民の反発を増幅。力ずくで抑えようとする軍人ならではのやり方が非難を浴び、やがて寺内内閣は総辞職に追い込まれました。これも大正政変に続く、民衆の力によって内閣が倒されたデモクラシーの典型例です。

 元老達は事態を収拾させるべく衆議院第一党の政友会総裁の原敬を担がざるを得なくなり、遂に本格的な政党内閣、原敬内閣が誕生しました。その直後、ヨーロッパで起きていた第一次世界大戦終結します。

 興味深いのは、第一次世界大戦オートクラシー独裁国家)とデモクラシー(民主国家)の戦いであると言われています。勝利したのは、イギリスやフランスを中心とした連合国側(デモクラシー)で、世界中のオークラシー(独裁国家)が崩壊していきました。

「皇帝や国王が独裁政治を行う時代は終わった、これからは民主政治が一般的な政治形態になっていくだろう。」

 こうして第一次世界大戦終結後、日本でも民主主義的風潮はより一層強くなり、民衆は普通選挙実施運動を展開していきました。

 

 原敬内閣は陸軍大臣海軍大臣以外は全て政友会会員であるという本格的な政党内閣を組織したということで国民から大きな期待を受けました。しかし、原は普通選挙を時期尚早であるとして一蹴。民衆の普通選挙実施運動に対し、極めて厳しい態度で臨みました。

 これによって、原敬の人気は低迷し、遂に大塚駅の運轍(うんてつ)手の青年に暗殺されてしまいます。普通選挙の実現は1925(大正14)年まで待たなくてはなりませんでした。

 

 普通選挙実施運動に触発されるカタチで、自由や平等、権利などを求めて続々とその団体が結成されていきました。労働組合の全国組織として日本労働総同盟共産主義を標榜する日本共産党小作人の支援する日本農民組合、女性解放を主張する新婦人協会、非差別部落による差別撤廃を唱える全国水平社などの団体が続々と結成され、社会運動が盛り上がりました。

 

 こうした中、第二次護憲運動が起こりました。

1924(大正13)年、清浦圭吾内閣が発足しました。清浦は政友会などの政党から閣僚を入れることなく、閥族や貴族院を勢力とした超然内閣を作り上げました。

 当然ながら、政党勢力は清浦内閣に反発し、打倒を企てて政党勢力がタッグを組みました。それは原敬以来、普通選挙に反対していた政友会総裁の高橋是清普通選挙賛成にまわり、従来から普通選挙を主張していた憲政会と革新倶楽部に歩調を合わせるカタチで行われました。

 そして政友会、憲政会、革新倶楽部による護憲三派が結成されました。彼らは、そのスローガンとして「政党内閣実現、普通選挙断行、減税実施」を掲げ、清浦内閣を打倒するべく倒閣運動を展開しました。清浦は議会を解散して総選挙を行いますが、選挙は護憲三派の勝利に終わり、清浦内閣は発足からわずか5カ月で総辞職に追い込まれました。

 このように第二次護憲運動とは、民衆のデモを伴うものではなく、選挙によって争われたものでした。

 こうして清浦内閣に代わり、護憲三派は政権を担当することになり、護憲三派を代表して憲政会総裁の加藤高明は首相に就任し、公約であった普通選挙法を議会に通します。そして1925(大正15)年、遂に普通選挙が制定されました。

 普通選挙によって納税制限がなくなり、25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。また、同時に治安維持法も制定されます。先述の通り当時、勢力を増していた社会主義者共産主義者普通選挙の実施によって当選してしまうことを恐れ、共産主義者を取り締まろうとしたのです。

 しかし、1928(昭和2)年の普通選挙制定後、最初の衆議院議員選挙で政府の心配通り、労働者や小作人を代表する無産政党から8名もの当選者が出てしまい、中には非合法に成立した共産党関係者も含まれていました。このため、時の内閣である田中義一内閣は強い衝撃を受け、その対応に迫られるのでした・・・・。

 

 このように大正時代とは、藩閥政治や超然内閣を倒し、民主主義の風潮が一段と強まり、政党内閣や普通選挙を実現していった時代なのです。大正時代は15年間で、45年続いた明治時代の3分の1しか期間がありません。しかし、現代の私達の政治的な面で大きな影響を及ぼした非常に重要な時代なのです。

以上

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

本宮貴大でした。それでは。

 

参考文献

父が子に語る近現代史              小島毅=著   トランスビュー

明治大正史 下                 中村隆英=著  東京大学出版会

教科書よりやさしい日本史            石川晶康=著  旺文社

ニュースがよくわかる 教養として日本近現代史  河合敦=著   祥伝社

オールカラーでわかりやすい日本史                西東社