日本史はストーリーで覚える!

日本史を好きになるブログ

【日ソ中立条約】なぜ日本はソ連と手を組んだのか【松岡洋右】

 こんにちは。本宮貴大です。
 この度は記事を閲覧していただき、本当にありがとうございます。
 今回のテーマは「【日ソ中立条約】なぜ日本はソ連と手を組んだのか【松岡洋右】」というお話です。

 第二次世界大戦の対立構造を俯瞰的に見てみると、勝敗のカギを握っていたのは、ソビエト連邦(以下、ソ連)であることがわかります。
 その対立構図は、枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)と連合国(イギリス・フランス・アメリカを中心)の対立として知られていますが、どちらの陣営にソ連がつくかで勝敗が分かれたということです。

 ということで、今回はなぜ日本はソ連と手を組んだのかについて見ていきながら、松岡洋右の外交戦略をご紹介していきたいと思います。

日独伊三国同盟は、日本を「悪の枢軸国」の一国に仕立て上げ、英米の反発をさらに強める結果となりました。そこで外務大臣松岡洋右ソビエト連邦を枢軸国側に誘い込むために日ソ中立条約を結びました。日独伊ソの四国同盟で再び圧力をかければ、さすがの英米も譲歩するだろうと考えたのです。

 軍部大臣現役武官制度を使って、三国同盟締結に反対する米内光政内閣を倒した陸軍首脳は、再び近衛文麿を首相として担ぎ上げ、1940(昭和15)年7月19日、第二次近衛内閣として発足させました。

 近衛内閣は‘陸軍の言いなり内閣‘で、陸軍大臣東条英機外務大臣松岡洋右が政治の表舞台で活躍するようになります。近衛は陸軍からの人気を誇る松岡なら陸軍の意見を多少なりとも抑えてくれるだろうと判断したのです。

 始めて外務大臣に就任した松岡は組閣後、すぐに三国同盟締結を急ぎました。
 同1940(昭和15)年9月19日、御前会議で同盟の締結が正式に決定され、9月27日にはベルリンで「世界に新秩序を」というスローガンが掲げられたうえで、日独伊三国同盟が締結されました。
 一方、アメリカでは対日経済制裁を強める政策が着々と進められていました。ホワイト・ハウスは1940年9月26日、「大統領は10月16日以降、全等級のくず鉄・鉄鋼の日本への輸出を全て許可制にすることに同意した」と新聞発表しました。
 日独伊三国同盟が締結されたのはその翌日のことだったのです。

 この同盟締結に激怒したアメリカとイギリスは、それまで共通の敵としていたナチスドイツに加え、日本もナチス同様の敵と見なすようになりました。
 松岡が締結した日独伊三国同盟は完全に英米を読み間違えた同盟となり、それまで日本の支那事変(日中戦争)に反発していた英米の反発をさらに強める結果となってしまいました。
 こうしてヨーロッパの戦争とアジアの戦争が一体化したことで、事態は悪化。今後のアメリカの対日経済制裁は強まると予想されました。

 松岡は新たな対応に迫られます。
 そこで親ドイツ派の松岡が考えたのは、ソ連と不可侵条約を結んでいるドイツをまねて、日本もソ連と不可侵条約を結ぶことでした。

 松岡の外交戦略はこうです。
 英米との対立を避けるためには、日中戦争を片付けなくてはなりません。しかし、ここまで事態が深刻化している以上、英米と直接的に交渉するなど不可能です。
 そこで、独ソ不可侵条約でドイツと事実上の同盟国であるソ連を日独伊三国同盟の力で説得し、日独伊ソの四国同盟を締結、すなわちユーラシア大同盟の圧力によって英米と対等に話をしたうえで、日中戦争を解決しようというのです。
 アメリカやイギリスに圧力をかけるためには、日独伊だけでは少し弱かったのでしょう。しかし、ロシアの国力を革命によって引き継いだソ連には、強力な軍隊も豊富な資源もあります。そんなソ連を味方につけることが出来れば、さすがの英米も譲歩し、日中戦争は収拾、ヨーロッパ戦線も枢軸国陣営の勝利で終えることが出来ると考えたのです。
 以上が松岡の考えるアクロバティックともいえる外交戦略です。

 一方、ソ連がキーマンであることは連合国陣営を熟知していました。
 第二次世界大戦は1939(昭和14)年9月にドイツがポーランドに侵攻したことがきっかけで勃発しましたが、実はその2週間後にソ連ポーランドに侵攻しています。ポーランドはドイツとソ連の東西からの挟み撃ちのような侵攻を受け、両国に分割統治されました。

 それを見たイギリスとフランスは、ポーランドを守るために‘ドイツにだけ‘宣戦布告しました。
 繰り返しますが、ポーランドに侵攻したのは、ドイツだけではありません。ソ連も攻め込んでいます。
 しかし、イギリスとフランスが戦線布告したのは、あくまでドイツ1国だけでした。
 このときのイギリス・フランスは非常に高度な政治的判断をしたと言えます。
 イギリスもアメリカも地政学的にソ連に侵攻することが非常に難しい国です。
フランスとしても、かつての皇帝・ナポレオンが失脚するきっかけとなったのが、ロシアへの侵攻であったことを知っていたのでしょう。
 ソ連には宣戦布告してはならない。どうにかして連合国陣営に取り込まなくてはいけない。


 ソ連は結果的に連合国陣営として参戦するわけですが、最初から連合国陣営だったわけではありません。少なくても1941(昭和16)年前半までは枢軸国陣営として参戦する可能性は十分にあったといえます。
 このとき、ソ連スターリンの指導のもと、バルト3国を併合したり、フィンランドに侵攻(冬戦争)したりしたことで、国際連盟から除名処分を受けていました。
 日本とは潜在的対立はありながらも妥協し、ドイツとも手を組んでいます。

「日本が望めばソ連もきっと不可侵条約を結んでくれるだろう。四国同盟は難しいものではなさそうだ。」

 松岡はそう考えました。
そして松岡はドイツの訪問を経て、1941(昭和16)年3月にソ連を訪問し、翌4月に日ソ中立条約の締結に成功しました。

 日ソ中立条約の締結は、スターリンにとってもメリットがありました。この頃、ナチスドイツの勢いはすさまじく、フランスを降伏に追い込み、イギリスをも降伏寸前まで追い込んでいました。ヨーロッパ戦線はほぼドイツの圧勝に終わると考えたスターリンも、ここはひとつ枢軸国陣営と手を組み、日本のような東アジアの憂いもなくしておきたいと考えたのです。

 これで三国同盟ソ連も加えた日独伊ソによるユーラシア大同盟が達成されるかに思われました。

 しかし、直後に大変な事態が起きてしまいました。
 松岡の日ソ中立条約の締結からわずか3カ月後の1941(昭和16)年6月、ドイツが独ソ不可侵条約を破って、ソ連に侵攻してしまったのです。
 これによって松岡が構想していた四国軍事同盟はあっけなく頓挫してしまいました。

「ありえない。イギリスとの戦いが片付いていないのに、ドイツがソ連に侵攻するなんて不合理だ。」

 しかし、親ドイツ派を貫く松岡は独ソ戦が始まった直後、ソ連の外交官に「三国同盟は日ソ中立条約に優先する」としてあくまでドイツ側に立つとしました。
こうやってソ連の外交官の腰を抜かせた松岡ですが、昭和天皇からも「支那事変(日中戦争)も片付いていないのに、何を言っているのだ」と叱責されています。

 外交政策を全て松岡に丸投げする近衛や陸軍首脳は「ドイツと組めるならそれでいいや」とばかりに追従し、海軍からは「ソ連はともかく、南方はどうする?このままではうちの立場がなくなる」として北進論が消え、「北守南進」の気運が強くなっていきました。するとアメリカは日本が南進政策を強めるごとに警戒心を強めていくのでした。

 それにしても松岡は3か月前に訪独し、現地の外交官やヒトラーにも会っていたにも関わらず、なぜドイツのソ連侵攻を事前に把握できなかったのでしょうか。
 日本の歴史研究家のあいだでは、松岡はドイツのリッペントロップ外相から「ユーラシア同盟などありえない」と忠告されたのに、松岡が無視したからだとされていますが、これは歴史の結果論に過ぎません。

 ヒトラーソ連に侵攻した理由として考えられるのは、3つあります。
 1つ目は、ヒトラーは連合国陣営がソ連を味方につけようと政治的工作をしていたことを知っており、一方で中々降伏しないイギリスに対し、ソ連を攻略することで、その希望を打ち砕き、イギリスから講和を引き出そうという狙いがあったことです。
 2つ目は、ヒトラーが何よりも共産主義を毛嫌いしていたことです。そのため、一度は手を組んだスターリンとの関係も長続きしなかったのです。
 そして3つ目は、ソ連を攻略することで、多くのスラブ人が住む東ヨーロッパ全土をドイツの植民地にしようと目論んだのです。

 つまり、松岡のような合理的な思考をする人間には、ヒトラーのような非合理的な思考をする人間の行動を予測することなど出来なかったのです。

 一方、対日経済制裁を強めるアメリカは、独ソ戦が始まったと見るや態度を急変させました。

 アメリカは日本に対してすっかり強気になり、翌7月に日米交渉の担当にあたっていたコーデル・ハル国務長官による一方的な要求を突き付けてきました。(ハル=ノート)
「日本は中国大陸から全面撤退すること」
「フランス領インドシナからも撤退すること」
「日独伊三国同盟を破棄すること」

 ドイツがソ連に侵攻したことで、ソ連が枢軸国側に参加する可能性はなくなり、アメリカはこの世界大戦を連合国陣営の勝利で終わらせることが出来ると確信したのです。

 しかし、日本にとって、これらの要求は到底、受け入れることが出来ませんでした。
こうした一方的ともいえるアメリカの要求に対して、時の首相・東条英機は、もはやアメリカとの交渉の余地はないと判断し、それまでの和平交渉派から一転、日米開戦を決断するにいたるようになるのでした・・・・。

 このように第二次世界大戦のキーマンとなったのはソ連でした。松岡はソ連を何とか枢軸国陣営に取り込むために日ソ中立条約を結び、日独伊ソによるユーラシア同盟を構想するも、ドイツのソ連侵攻で、その同盟は幻となってしまいました。
 結果的に日本はドイツに振り回され、‘悪の枢軸国‘の1国とされ、最終的に60ヵ国が参加する連合国軍を敵に回すことになってしまいました。
 ソ連と組めなかった枢軸国、ソ連と組むことが出来た連合国、第二次世界大戦はここに雌雄を決したのでした。

以上。
最期まで読んでいただき、ありがとうございました。
本宮貴大でした。


参考文献
「昭和」を変えた大事件         太平洋戦争研究会=編著 世界文化社
負けるはずがなかった!大東亜戦争    倉山満=著  アスペクト
教科書には載ってない 大日本帝国の真実 武田知弘=著 彩図社
教科書よりやさしい日本史        石川晶康=著   旺文社
子供たちに伝えたい 日本の戦争     皿木喜久=著  産経新聞出版